こんなに近くにいた君に、伸ばした指先が届かなくなる日。

あたしはもうここにはいない。

 

 

 

 

 

気づけなかったいつかの初恋

 

 

 

 

 

ぼんやりと視界に映るのは小柄な彼の大きな背中。

そっと、握っていたシャーペンの尻で突くのはこれで何回目なんだろう。

ぴくっと体が揺れて大きな目がぐるりと後ろを振り返る。

その目が何回か瞬いてあたしをしっかりと視点に定めるとキョトンとしてすぐにいつものにやりとした表情を見せる。

途端に胸に躍動感を感じてあたしもいつもの笑みを返した。

 

 

 

 

 

「貸しいちな。」

「この前あたし貸しいちあったからこれでチャラだもん。」

「マジで?なーんだつまんねぇーのー。」

 

 

 

 

 

そう言って唇を尖らせながら机の上にのっていたノートをあたしの机の上にのせてくれた。

よし、これで今日の授業は安泰だ、と内心ガッツポーズを作りながら岳人に感謝した。

 

 

 

 

 

苦手科目、英語。

そんなあたしは常に毎時間英語と苦戦している。

英語なんて覚えたら簡単だとか岳人みたいに出来る人は言うけれど、やっぱり人には向き不向きがあるらしく、はっきり言って無理だ。

最善は尽くしたしこれ以上打つ手はない。

最近は日本にいたって英語力は必須となってきているんだから将来が心配でしかたがない。

あたしはきっと負け組になるだろう。

 

 

 

 

 

「そーそー侑士から聞いたんだけどさー…」

「忍足くん?」

「そ。…」

 

 

 

 

 

言いかけて視線を落とす。

忍足くんが話題に上がってきたことにも驚きだが、何しろ今は岳人の見せる表情の方が驚きだった。

だって、何だか泣きそうな顔してる。

それを必死に隠そうと、極力面に出さないようにと、動揺するようにゆらゆら揺れる大きな瞳があたしの胸にズキンと響いた。

 

 

 

 

 

まさか、まさか。

いや、まだ知らない。

彼はまだ知らないはず。

まだ誰にも言っていないし、誰も知らないはずなんだ。

 

 

 

 

 

ぎりぎりまで内緒にしていようと心に誓い、あたしはここ数週間内心に鍵をかけて過ごしてきた。

特に目の前の彼、岳人なんかには誰よりも知られたくなかった。

寂しいから、辛いから。

きっと、もうその背中に手を伸ばすことさえ出来なくなってしまうだろうから。

 

 

 

 

 

「転校、するんだって?」

 

 

 

 

 

ああ、彼は知っていた。

あたしが告げる前に彼は知ってしまったんだ。

そんな寂しそうな顔してくれるんだと嬉しく思う反面、この窓際後ろから二番目の席とお別れなんだと思うと急に悲しくなった。

 

 

 

 

 

もう、彼の背中に手を伸ばすこともない。

あたしは窺うようにあたしを見つめる岳人の視線から目を背けるように頷いた。

嘘を言ったってしょうがない。

ここは潔く認めてしまう方が利口だろう。

 

 

 

 

 

そっか、やっぱりか、と岳人は俯きがちの視線を天井へと移し、あーとよくわからない呻き声を発しながら頭を掻いた。

 

 

 

 

 

「侑士がさ、職員室でと先生が話してんの聞いちゃったらしくてさ、」

「あーそういえばいたかも…忍足くん。」

「うん、それで侑士の奴がの性格だったら最後まで誰にも言わないつもりだって俺に…」

 

 

 

 

 

「後悔しないようにって教えてくれたんだ。」

 

 

 

 

 

ちょっとは話してくれるかなと思って待ってみたけどやっぱり言う気なかったんだなとムッとした空気を纏った岳人に睨みつけられる。

忍足くんという伏兵が潜んでいたことにあたしは若干苦笑いを零しつつも目の前で機嫌を悪くしてむくれる岳人にごめんと謝罪の言葉を述べた。

 

 

 

 

 

「…青学、だろ?」

「うん、そんなに遠くないんだ。」

「俺さっ…!」

 

 

 

 

 

ガシッと机の上にのせていたあたしの手を掴むと岳人は大きな目でじっとあたしを見つめた。

休み時間なだけあって騒がしい教室に二人の周りだけ緊迫した空気が漂う。

ごくりと飲み込んだ唾液が喉の奥で引っ掛かってまた逆流してきそうな感覚に襲われた。

 

 

 

 

 

「今はまだレギュラーじゃないしまだまだだけど…必ずレギュラーになって大会とか普通に出れるくらい強くなるから!」

「…う、うん、岳人?」

「青学って氷帝と同じくらいテニスで有名なんだぜ!だから青学の奴らが俺のこと噂するくらい強くなってやるから…」

 

 

 

 

 

そこまで言って岳人は少し寂しそうに俯いて握っていたあたしの手にもう一度力を入れる。

今はまだ中学二年生になったばかりのあたし達。

この先長い人生の中、たくさんの人と出会っては別れを繰り返す。

だけど、あたしは別れてしまったとしても、岳人だけは忘れたくなかった。

小学校から何度か同じクラスで、ちょっとした言い合いになったり、お互い腹を抱えて笑い合ったりしたこともあった。

離れ離れになっていつも近くにあった君という存在に、手を伸ばせば届く距離にいた君に、その華奢なくせに大きな背中を忘れてしまうことが怖かった。

 

 

 

 

 

今思えば、これは紛れも無く恋だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

「忘れんなよ、。」

 

 

 

 

 

あたしは岳人という前の席の住人が大好きだったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おはよー!」

「はよっ、エージ!」

 

 

 

 

 

いつも通り元気な彼は机に鞄を投げるように置いてあたしの前の席に軽やかに座る。

右頬に見える絆創膏がチラリと見えてすぐにニシシと何だか楽しそうに笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

「なーに笑ってんの?」

「べっつにー、あ、そうだ。明日予定ある?」

「や、ないけど…何?」

 

 

 

 

 

やけにハイテンションなエージにあたしが首を傾げていると同じクラスの不二くんがくすくす笑って柔らかそうな髪を揺らしながらあたし達のもとへとやってくる。

 

 

 

 

 

「僕たち、明日は氷帝学園と試合なんだ。」

「氷、帝…」

「そ!の前の学校でしょ!?観においでよ!」

 

 

 

 

 

ドキンと跳ね上がる胸の音に気付かなかったわけじゃない。

ずっと胸にしまい込んでいた感情が弾けて飛び出すような感覚に驚いてしまっただけ。

氷帝学園と聞いて思い浮かべるべきものは沢山あったはずなのに、あたしの頭の中は何故か岳人の顔が思い浮かんで胸がキュウッと痛んだ。

 

 

 

 

 

もう一年以上過ぎてしまった彼がいない時間。

あたしは青学の生徒として過ごすことにも慣れ、彼じゃない背中を突くことも多々あった。

忘れたわけじゃない、だから大丈夫。

だけどやはり寂しさは拭えない。

彼はあたしのことを覚えていてはくれているのだろうか。

 

 

 

 

 

「それにしても、組み合わせどうなるんだろ。不二は誰とあたると思うー?」

「僕?んー…一応手塚には芥川をお願いしてるんだけどね。」

「あー、裕太の仇ってやつね!じゃあ俺はやっぱりー…」

 

 

 

 

 

「あの向日岳人とかいう奴かなー?」

 

 

 

 

 

同じアクロバティックだし、と笑うエージの声が頭のどこかでぼんやりと響いて消える。

そうかもね、と相槌を打つ不二くんもくすりと笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『青学って氷帝と同じくらいテニスで有名なんだぜ!だから青学の奴らが俺のこと噂するくらい強くなってやるから…』

 

 

 

 

 

『忘れんなよ、。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何故か溢れて来た涙に、あたしは抵抗もなくそれを頬に伝わせ笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007.11.11 執筆

悲しいような爽やかなお話。

設定は岳人がレギュラーになる前の二年になりたての話から三年のお話。

少々辻褄の合わないところがあるかもしれませんがさらっと水に流してやってくださいマシ。