いちごいちえ
わかってたことなのに、好きだったのに。
あれだけ欲した時間が今は退屈で仕方がない。
オレンジ色に染まった空をこんな所から見上げる日が来るなんて思いもしなかったあの頃。
ここだけが区切られた特別な空間に感じるのはきっと、フェンス一枚を隔てた向こうがあまりにも現実的過ぎるから。
静かなのに足元から聞こえてくる野球部独特の掛け声と金属バットの音、それに聞き慣れたはずのシューティング音があたしの鼓動を嫌というほど掻き立てる。
だけどもう戻らないと決めたもの。
そっちには行かない、行きたくない。
楽しかった幸せな夢はとっくに覚めちゃったんだ。
同じ夢は二度と見ることができない。
彼と過ごした日々は彼の気まぐれで見ることが出来たひと時の夢だったと、そう割り切ることが出来たならどれほど楽だっただろうか。
どれほど救われただろうか。
否、だったら今あたしはこんなところになどいない。
こんな屋上のフェンスにもたれ掛かって空なんか見上げていたりしない。
時折下なんかを見て、あたしがいなくなってもいつも通り行われている部活動の風景を見ていると、たまらなく体を動かしたくなる。
所詮ただのマネージャーだろ、と言われてもだ。
あたし以外にもマネージャーはいたしみんなよく働いていたからそれほど忙しくもなかったが、それでもやっぱり疲れるし大変だった。
何度時間を欲したことか。 自由という名の時間を。
だけどいざ手にするとそれはあまりにも暇なもので、普段無駄に走り回っていたあたしからすると何をして過ごせばいいのかまったくもって見当もつかなかった。
「あ、ジロちゃんご登場だ。」
フェンスを掴む手に自然と力がこもる。
テニスコートに入って来たばかりの、というよりは樺地君に担がれて連れて来られたばかりのジロちゃんが見えた。
何て不思議なものだろう。
つい最近までは自分もあの空間の中にいたというのに今はこんな何メートルも離れた上から米粒ほどの彼らを見下ろしているなんて。
少し前のあたしなら今ベンチの上に転がされたジロちゃんを起こしに行ってなかなか起きないジロちゃんに業を煮やしているところに景吾がやって来て、
あたしがあれだけ頑張って起こしていたのをまったくもって無駄にするようにひと蹴りで起こしてしまうんだ。
どうして今あたしはここにいるのだろう。
どうしてこんなことになったのかな。
「悪いのは…あたし?」
フェンスがギシギシとお互いがひしめき合う音を奏でる。
そこに額を預けて俯くと、重力に逆らえない涙がぽろぽろ零れ落ちてコンクリート張りの地面に黒い染みを作っていった。
こんなに悔しいことはない。
一番わかってほしかった彼に見放されるなんて、どれほど悔しいことなのだろうか。
ジロちゃんも宍戸も忍足も、みんなわかってくれていた。
岳人だって長太郎だって日吉だってみんなみんなわかってくれていたのに、彼だけが何も知らずに、気付かずに有無を言わさずあたしとの繋がりを切ってしまった。
彼女という名の肩書を彼によって消されてしまったあたしは今、彼ではない誰かの彼女という肩書を背負ってる。
同じ部活という繋がりも一切断った。
もともとクラスも違うし部活以外で会うことなんてほぼなかった。
それでもあたしが幸せだったことには変わりがない。
彼と共に過ごした時間には思い出がたくさん詰まっているし、たとえあたしの一方通行な想いだったとしてもそれは確かな思い出。
誰にも否定なんてできないもの。
カタン、
乾いた音が背後に聞こえて驚いた顔や泣いた顔何ひとつ見せずに振り返る。
その先にいた本来ここにいるのはおかしい彼の険しい表情にドキリと胸を跳ね上がらせて息を呑んだ。
何しに来たのだろう、そう思うのが普通なのだろうけれど生憎今のあたしは普通とは掛け離れた場所に存在しているからそうは思わなかった。
むしろ、何故かやっと来たという感情の方が強くて、あたしはいつの間にかこんなにも図々しい女に成り下がってしまっていたんだと自分自身に自己嫌悪に陥る。
「……部活は?」
「俺は訊いてねぇ。」
「………」
「辞めたなんて、一言も訊いてなかった。」
声の低さで、眉間に刻まれたラインの深さで、見据えられたその強い眼差しで、彼の機嫌が悪いことなんて百も承知。
やはり部長でもある彼に黙って退部届けを出したのはまずかったか。
だけどそうでもしないと決心が鈍ってしまいそうでダメだった。
あたしが辞めると言えば彼は必ず何かしらアクションを取ることは目に見えてわかっていたこと。
喧嘩別れとはまさに複雑で、見栄えのいいものでもない。
あたし達の喧嘩別れはいたってあっさりとしたものだったけれど、それは別れる際の話であって、
あたし達の場合は嫌というほど後からじわじわと沸き上がってくるようなものだった。
喧嘩の原因なんて実にくだらない。
あたしが我慢ならなかっただけ、我が儘だっただけ。
彼からの希薄過ぎる愛を感じ取ることができなかったあたしが原因。
それはみんなも気付いていたし、景吾だって気付いてくれていると思ってた。
いつかはちゃんとその形整った口から想いを告げてくれるものだと、そう信じていたからたとえどんな扱いを受けようと耐えてきたのに。
だけど現実とは実に酷なもので、ちょっと不満を零せばあたしは彼にあっさりと別れの言葉を告げられた。
ちょうど前の日くらいに野球部である今の彼氏からのアタックもあり、彼と別れたという傷を埋めるために彼ではない誰かの彼女になった。
そうすることによって、今まであたしがずっと欲していた愛情は至極簡単にあっさりと手に入った。
何だか今までの自分が馬鹿らしく思えて、同時に彼へのあたしに注がれるべき愛情がどれほど希薄なものだったのか、身をもって実感した。
「………帰ってこい。」
「どうして?もう関係ないじゃん。」
「別れたからってマネージャーを辞めれると思うな。それとこれとは別問題だ。」
「………一緒だよ。」
わかってない。
彼はわかってない。
あたしがどれだけ頑張ってきたのか、景吾はちっともわかってなんていなかった。
期待とは裏腹に、向けられる言葉はいつも反対のことばかり。
「部長は俺だ。」
「……うん、そうだね。」
「相談もなしで勝手に退部なんてできると思うな。マネージャーだって一部員だ。」
「でもその前にあたしは景吾の彼女だった人間だよ。」
何かを請うわけでもない、もとの関係を望むわけでもないけど訴えかけるような瞳で景吾を見上げる。
開きかけた口を閉じてしまった景吾から感じ取れるものは何もない。
以前なら怒ってるとか、あたしのことなんてどうでもいいんだとか少しだけどわかった。
今彼の顔に貼付けられた表情はまさに無と呼ぶに相応しいだろう。
眉一つ動かさずに綺麗に整った彼の瞳に見下ろされるという状況はかなり心苦しい。
その僅かに揺れる瞳は一体はあたしに何を訴えかけているのか。
カキーンと、金属バットにボールが跳ね返された強烈な音と野球部員の盛り上がった歓声がどこか遠くから聞こえた気がした。
「、」
「………何?」
「悪かった。」
「!」
フェンスが背中辺りで胸の音が漏れてしまったようにひしめき合う。
フェンスを握って覆いかぶさった瞬間、微かに香った彼の香りに意識が混濁してしまったみたい。
そんな香りがふわりと鼻をくすぐったかと思うと触れ合った唇にしょっぱさが混じって離れていった。
「……もう、遅いよ…戻れないよ、バカ。」
ぽっかりと空いていた隙間が埋まっていく。
だけど遅すぎた愛に時間は戻せない。
ただ今はこのままで、流した涙を掬ったりしないで。
あたし達はこれでいい、これがいい。
「ありがと、……でも、バイバイ、景吾。」
一期一会。
それはあの時、あたしが最後に見せた我が侭。
静かに抱き合うあたし達の背中越しで練習を終えた野球部員の元気な挨拶がこだました。
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2007.11.6 跡部
跡部初夢。悲恋のような両思いのような…微妙ーな感じ。笑