ただ何となく。
君の存在はまさに空気のようで
必死に手を伸ばしてみても掴みどころなんてどこにもなかった。
紅-kurenai-
肩で息をする。
薄ら目が赤い目の前の彼。
本来白いはずの肌にところどころ滲む痣。
額から滑り落ちる汗に、ここまで来るのに何があったのかと問い質したくなるほどだ。
は急な外の光に閉じたくなる目を見開き、今自分の正面に映る彼の姿を見上げた。
「切原くっ・・どうして!」
「・・・あ・・うそ・・」
二人の女子が震えた声を上げて目を見開いている。
ここに来るなど想像もしなかった相手が突如現れたことにより、二人は顔を真っ青にしてそこから動けなくなってしまった。
ハッと我に返ったはちらりと自分の前に立って後ろを向く小百合を見上げる。
表情は見えないものの、の前髪を掴む手が僅かに震えていることに気がついた。
「やっぱり・・アンタだったんだ、犬飼サン。」
ふっと笑って親指で口元の固まりかけていた血液を拭い取る。
ズキズキ痛む脇腹を押さえながら開け放った倉庫の扉に軽く体を預けた。
「やっぱりって・・・何よ。」
「アンタでしょ?今までずっと俺のカノジョに手ぇ出してたの。」
絡み合う視線に唇を噛む。
きつく噛みすぎた唇から真っ赤な血が流れ出す。
切原はそんな小百合を見て視線をに戻した。
「・・・ごめんサン。俺、知ってた。犬飼サンが虐めの首謀者だってこと。」
「!!」
驚いたのはだけではない。
当の本人、小百合ですら驚いた表情を浮かべて息を呑んだ。
「嘘っ!」
「いや、気付いたのはつい最近なんだけど・・・アンタの時折見せる射抜くような視線で何となく気付いてた。」
「っ、だったら何で!何で・・・!」
「知ったときはくだんねぇと思った。だけど、それ以上に信じたかったんだよ。」
はっきり、小百合の言葉を遮るように発する言葉。
小百合は押し黙り、口を噤んだ。
教室で馴れ馴れしくも切原に近づく女共を今まで幾度となく睨み付けては後に呼び出して出る杭は打ってきた。
つい最近もひとり。
適当にあしらわれてはいたが確かに切原に近付いた女がいた。
教室の入口で切原に絡んでいた女を周りにはばれない程度に睨み付けていたけれど、まさか切原自身に見られていたとは。
舌打ちしたい思いでいっぱいの小百合は自分がずっとの前髪を掴み上げていたことに気付き、ぱっと手を離した。
からは痛みから解放されたことにより小さく声が漏れ、少し顔を歪めていた。
「信じ・・たかった?」
「あの時、俺の前で交わされた会話が嘘には見えなかったから。」
『今年も同じクラスだし、このまま三年も同じクラスだといいのにね。』
『あはは、私も小百合とはずっと同じクラスがいいや。』
「アンタはそんな奴じゃないって、俺自身思いたかったから・・・」
再び切原と交わる視線。
噛み締めた唇からはじんわりと血が滲み出て流れ落ちるのを止めない。
握り締めた掌に綺麗にネイルアートしてある爪が食い込んでいた。
「・・・っ、き、りはらが・・アンタが悪いのよ!私は悪くなんてない!」
「小百合・・・。」
「どうしてなの!?どうしてにっ・・・・」
ギリッと歯軋りの音が聞こえる。
声を荒げて叫んだ小百合に続くようにして残りの二人も声を出した。
「そうよどうしてさんなの!?」
「この女のどこがいいのよ!」
キッと釣り上がった目がを見下すようにして睨み付ける。
その視線から逃れるようには俯いた。
「そんなの、俺なんかより、アンタが1番わかってんじゃねえの?」
切原の視線が自分の触れられたくないところに容赦なく突き刺さる。
バッと視線を逸らして俯いた小百合に切原はそっと目を閉じた。
痛い。
先ほど不良三人を相手にしてきたが、その時に負った傷がズキズキと切原の体を蝕んでいた。
何とか三人を相手に出来たものだが、そのリスクはでかかった。
今、立っているのも辛い。だけどここでへたばるわけにはいかない。
彼女をこの手に触れるまでは、と何とか壁に支えられて息を荒くして立っていた。
「な、何言ってんのよ切原君!小百合はさんのことなんて何とも思ってないのよ!」
「小百合はねぇ、切原君のためになら友達なんて何とも思わない子なの。その容赦がないところをみんなかってるんだから。」
クスクスと笑う彼女達にちらりと視線を向ける。
小百合はただ俯いているだけで何も言わなかった。
だけど、握り締められた拳が僅かに震えていて、今にも泣きそうな顔をしていることに、
下から見ていただけが気づいていた。
「小百合は友達なんていらないんだよ。」
ひとりの女から最後に出た言葉には弾かれたように顔を上げ、その子の笑う顔をマジマジと見つめた。
違う。
この感情は何だろう。
沸々と煮えたぎるようなこの感情。
は唇を噛み締めて縛られている為使えない手を使わずに自力で立ち上がった。
「そんなことないよ!小百合はそんな冷たい人間じゃない!!アンタ達に何がわかるっていうのよ!!」
突然声を荒げたに驚いたように目を見開き、
それは小百合自身も同じで、ずっと俯いていた顔を上げてそっと視線をに移した。
「何よ、騙されてたくせに。アンタの方が何もわかってないじゃない。友達ぶるのもいい加減にしたら?」
「騙されてなんかない!小百合は本当に友達だよ!!私と小百合は友達なんだよ!!」
「殴られて蹴られて・・・それでもまだ友達?はっ、ふざけないでよ。いい子ちゃんぶってんじゃねえよ!」
「っ、私は・・・私は本当に小百合は友達だと思ってる!・・・私は小百合と友達で良かったって今だって思ってるもん!!」
目にいっぱいの涙を溜めて女に向かって叫ぶ。
そんなの姿を見て小百合は瞳を揺らしてはどこか戸惑うような、そんな表情を浮かべていた。
「アンタ達は小百合のこと何にも知らないくせにっ!知ったふうなこと言わないでよ!!」
「煩いな!黙れよ!!!」
パンッ
乾いた音が倉庫内に響いてすぐにズサッと倒れる音がする。
見れば両手を使えないが抵抗できずに尻餅をついて倒れていた。
その際に手首を縛っていた紐がどこかに引っ掛けて切ったのだろうか、緩んだ紐が解けての手は自由になった。
咄嗟に差し伸べようとしてしまいそうになったその手を引っ込める。
空を切ったその手がやけに虚しくて、震えていることに自分自身、今気づいた。
「犬飼サンさ、大切な・・人って・・誰?」
切原の苦しそうな途切れ途切れの声が聞こえる。
はっとしてそちらに視線を向けると、切原は今にも倒れそうに壁に全体重を預けるように立ってこちらを見ていた。
絡み合う視線に、逸らすことはできなくて。
小百合は唾を飲み込んでギュッと手を握り締めた。
「アンタのこと・・何とも思っていない俺?・・・自分のことを言葉で責めてくるそこの二人?それとも・・・・」
「・・・・・・。」
「・・・・自分のことをどんな状況に立たされていたって庇ってくれる・・・サン?」
「・・・・っ!」
じゃりっと地面と靴底が擦りあう音がする。
一歩、また一歩と小百合は後退して目を見開いたまま歯を震わせていた。
小刻みに震える肩、手、足。
全てが彼女の答えとして現れていた。
「俺さ、プライドめちゃくちゃ高ぇから・・・他人から好かれることに関しては気分がよかった。」
何時だってどんな時だって主導権を握っているのは自分で。
四の五の言わさず自分の思い通りになるそんな存在が心地よかった。
「だけど、サン見てるとイライラして・・・どうしようもなく悔しかった。」
自分だけがこんなにも振り回されてる気がして、
触れたくても触れられない、ふわふわした彼女の存在。
最初に気づいた方が負けな気がして、
気づかないふりして違う道を走ることを決めた。
「離れてみて・・それで落ち着くと思ってたのに、目はいつもサンを追っちゃってて・・・他の男といると無性に腹が立った。」
この気持ちを何て呼ぶのか、知っていたくせに、
素直に認めると楽になれるってわかってたくせに、
その名を自分で呼ぶことが悔しくて、
このクソ高いプライドが幾度となく邪魔をした。
「でも俺、もう限界なんだわ・・・。先輩達にも、他の奴らにもいっぱい迷惑かけっ放しで・・・何か良く考えるとそっちの方がダセェし。」
いつも俺の世話みてくれてたブン太サン。
俺のこと好きだって言って中途半端な俺に付き合ってくれた朱音先輩。
酷い振り方したにも関わらず俺に面と向かってサンの危険を知らせに来てくれた杏璃。
ムカつく人だなと思ってたけど、結局は俺に引導を渡してくれていた仁王先輩。
みんな、俺が迷惑ばかりかけてきた人たち。
それでも嫌な顔一つせずに正しい道を走ろうとしている俺の背を押してくれた。
こっちは間違った道だと、それぞれのやり方で教えてくれた人たちの好意を無駄にしない為に
変わろうと、思った。
「俺、いつの間にかサンが誰よりも、自分のプライドよりも大切な存在になってた。」
なあ、大切なもの、守れなくてどうする?
自分の意思貫いて、大切なものを壊してたら、それこそ馬鹿だと思わねえ?
守りたいと思ったならば、自分を犠牲にしてでも守ってみるのも悪くないじゃん。
たぶん、その道は間違ってなんかないと思う。
指先を通り抜けていく大切な存在を、はっきりとこの手に掴み取る瞬間。
人は変わるんだと思う。
「・・・・・もう・・・やめて・・・」
「小百合・・・?」
「もういいよ!やめて!!」
叫ぶ声。
頭を抱えながらその場にしゃがみ込んだ彼女にそっと近付くのは。
あとの二人はその場に立ち竦んだまま落ち着きのない目でじっと小百合を見下ろした。
「・・・・・・・・っ、もう、いい・・・・・」
「小百合っ!」
「触らないで!!」
「小百合っ落ち着いて!!」
震える小百合に触れようとするとその手を勢いよく振り払われる。
はビクッとしてその手を引っ込めた。
それでも意を決したようには小百合の肩を掴む。
キッと自分を睨みつけてくるその目には涙がいっぱい溢れていて、はハッとその手を離してしまった。
「・・・こんな私に構う事なんてない。・・・もう、友達だなんて・・・思わないで・・・。」
そう呟くと、小百合はふらりと立ち上がり、光差す倉庫の出入り口に向かって歩き出した。
そんな小百合を見て慌てて二人の女子も駆け寄るように走り出す。
ちょうど切原の横を通り過ぎるその際に一度だけ振り返る。
呆然とその場に座り込んでいると目が合うと、ふっと目を細めてそのまま視線を切原に向けた。
「・・・・大切に・・・してあげなよ・・・。」
そう小さく呟いて小百合はそのまま倉庫を出て行った。
二人の女子も出て行き、段々小さくなる足音が聞こえなくなると、その場もシンとした空気が押し寄せてくる。
力が抜けたようにその場にへたり込む切原には驚き、そして駆け寄った。
「切原君!」
「あ〜イッテェー!!」
「だ、大丈夫?」
「そういうサンも、切れてる、ほらココ。」
自分の顔を覗き込むの頭を引き寄せ、そのままの体勢での口端に滲む血を舐め取った。
突然のことで何が起こったのかわからないだったが、
ヒリッと痛んだ口端にハッと意識を取り戻し、顔をみるみるうちに真っ赤にさせた。
「なっ、何・・・・!!」
「助けに来たお礼。今のでチャラな。」
「助けに来たって・・・・あ、そっか。ありがとう。」
「へへ、どういたしまして。でもお礼言われるより俺は・・・」
そう言って両手を伸ばし、の両頬をそっと包み込む。
ニッと笑った切原の顔が近くにあって、の目がまん丸と見開かれた。
「サンの返事聞きたいんだけど。」
大丈夫。
ふわり
ふわり
風のように掴みどころのない君を捕まえることは難しかったけれど
一度捕まえてしまえばもう放さない。
何手にも分かれていたはずの道が、今、一本の道へと変わった。