ただ何となく。
君の存在はまさに空気のようで
必死に手を伸ばしてみても掴みどころなんてどこにもなかった。
紅-kurenai-
自分のプライドよりもアイツの方が大切だと気づいた時、
俺の前にはもう真っ直ぐな一本道しか続かない。
息が途切れ途切れに吸ったり吐いたりを繰り返す。
そんなこともお構いなしにただひたすら走った。
目指すはあの薄暗いひと気が全くと言っていいほどない工場の倉庫。
確かにあそこなら何をしようが助けは来ないし、虐めなんかには最適な場所だ。
俺は気づいていたんだ。
本当は誰を好きでどうすべきかなんてこと。
だけどわざと気づかないふりをしてきた、いや、わざと目を逸らしてきたんだ。
アイツが俺のせいで虐められていたことだって知ってて全部を投げ出した。
全部、全部俺の意地とつまらないプライドのせい。
初めてだったから。こんな気持ち。
初めて人をこんなにも好きになったから。どうしていいのかわからなかった。
あの柔らかい感触を味わった時から俺はもう気づいていた。
愛しくて。
愛しくて。
離したくなくて。
誰にも、触れさせたくなかった。
「・・・っくそ!!」
やっと見えてきたその薄暗い今にも潰れてしまいそうな倉庫を見上げて一度立ち止まる。
肩を上下に揺らして息を整えてみるけれど、全然呼吸は楽にならない。
そして肺にたくさん酸素を取り込んで門を潜った。
「切原じゃねえか。」
門を潜ってすぐその隣で胡坐を掻いて座っている男がいた。
そいつに声をかけられて思わず踏み出した足をぴたりと止める。
驚いてそこに視線を這わすと、そいつの鋭く尖った目と俺の目が合った。
コイツには見覚えがある。
確か去年同じクラスだった奴だ。
一度、校内での喫煙がばれて停学になってからよく学校サボったりして学年でも結構浮いている奴。
コイツがサンを連れ出した犯人ってわけか、と俺も鋭い目で睨みつけていると、
俺の背後からもう二人ほど、見覚えのある奴が煙草を咥えながら地面の砂利に靴底を擦らして近付いてきたのに気がついた。
「何でこんなところに切原が来るわけ?」
「っつか部活はー?」
「おいおいまさか助けに来たとか言うんじゃねえだろうな?やめとけやめとけ。火に油を注ぐだけだから。」
「もともと原因お前なわけだしー?可哀想だけど・・・・今頃あの子もボコでしょ。」
下品な笑い声が耳のすぐ横を掠める。
俺の肩の上に乗せられた手。
吹きかけられた煙草の煙に眉一つ動かさずに俺はじっとそいつ等の戯言を聞き流す。
そんな俺の態度が感に触ったのか、三人の中の一人が俺の肩を強く掴んで後ろに押した。
「っつかさー俺お前に彼女とられたことあるの覚えてる?」
恨み篭った低い声。
俺は返事を返す代わりに、一度だけ目を閉じて歯を食いしばった。
もう、俺はアイツ以外何もいらない。
ただ、会って抱きしめたい。 あの温度を確かめたいだけ。
だから、無駄なプライドと意地は全てここに置いていこうと決めた。
『切原君!』
「お前、ムカつくんだよ切原あああ!!!」
俺の頬を掠める相手の拳を軽くかわしてすぐさま後ろから飛んでくる第二の拳を片手で受け止めた。
だけどやっぱり三対一ってのは少し分が悪くて、待ち構えていた三人目の蹴りが見事俺の鳩尾をクリーンヒット。
俺は少しだけ顔を歪めて姿勢を低く保った。
乾いた咳がとめどなく出てくる。
「調子にのんなよコラ。」
「女たぶらかして遊んでるからそんな目に合うんだよバーカ。」
三人の男から次々と飛んでくる拳と蹴りを避けたりしながらも、なんとか一刻も早くこの先にある倉庫の中へと入って
サンの身の安全を確認したいと体が勝手に倉庫の方へと進む。
だけどそれを目敏く見つけては三人の男は俺を行かせようとはせずに殴ったり蹴ったりを繰り返していた。
大体はかわすことは出来るけれども、やはり全部かわすことは無理で、いくつかの蹴りやパンチが俺の体を鋭く刺激していった。
ここまで全速力で走ってきたこともあって、徐々に息が上がってきて体に出来る痣や傷が段々と増えていく。
くそっ、このままじゃ助けに行くことすらできねえじゃねえか!!
「おーい、切原君大丈夫でしゅかーギャハハ。」
「見ろよダッセーへたばってんぜコイツ!!」
「汗びしょびしょじゃん!体力ねえなあ!!」
「そんなんだから好きな女も他の男に取られちゃったんじゃねえの?」
最後に笑った男が俺の腹に一発蹴りを入れる。
だけど俺はその足を掴んで口端から垂れる自分の血液をぺろりと舐めとり、ゆっくりと俯いていた顔を上げた。
その瞬間、俺の顔を見たそいつは「ひっ」っと上擦った声を上げ、必死に俺から離れようと足を動かすが俺が離すわけがない。
俺はゆっくりと立ち上がり、そして額から微かに流れる血をもう片方の手の甲で拭い取った。
「こ、コイツめ、目がッ・・・・・!!」
「へー言いたい放題言ってくれたじゃんアンタら。」
ばっと掴んでいた足を乱暴に手放す。
慌てて男は他の二人の元へと駆け寄った。
三人は俺のことを鋭く尖った目で貫くように睨んでくる。
俺はもう一度口の周りについた血を乾いた舌で舐めとり、口の端を上げて笑った。
「覚悟、できてんだろ?」
ふざけんな。
プライドも意地も全部捨ててやったんだ。
もう、とられてたまるかよ。
覚えとけ。
アイツは、は、
これから先はずっとずっと俺のもんなんだよ。
「・・・・ん」
薄暗い。
上の方についている窓からさす微かな光だけがこの大きな部屋の明かりとなっていた。
ここは何処だろう。
確か私は委員会が終わって家へ帰ろうと校門を出たところで知らない男の人三人に声をかけられて・・・・・
そこからの記憶が全くと言っていいほどなかった。
ゆっくりと体を起こすと感じるのはかすかなお腹の痛み。
殴られたのだろうか。
そういえばちょっと頬や腕も痛い。
一刻も早く外へ出たかったが、手は体の後ろで縛られてそこから何処かに繋がれているようで到底この場から動けそうにもなかった。
「あ、起きたみたいね。」
くすくすと聞こえる女の笑い声。
複数の足音と共に人影が三人分姿を現した。
まだ起きたてで暗闇に目の慣れていない私は、少し目を細めながら顔の見えない三人の人影を見上げた。
「な、何よこれ!一体どういうつもり!!?」
「うるさいな!黙ってろよ!」
「仁王先輩も切原君もたぶらかしやがって、ブスのくせに!!」
三人のうちの二人が私に近付いてきたかと思えば乾いた音を立てて頬を打つ。
その際に切った口の端からぬるりと血液が顎を伝った。
口の中が鉄の味で広がる。
気持ちが悪かった。
「アンタのその優柔不断な性格のせいで振り回されて傷ついた人がたくさんいるのよ!わかってんの!?」
「何よいつもヘラヘラ笑って!最近じゃ丸井先輩までたぶらかしてるそうじゃない!!」
「そ、そんなこと・・・」
「言い訳なんて聞きたくない!!アンタは自分が周りを巻き込んでるってわかってないんだから!!」
前髪を掴まれて無理矢理顔を上げさせられる。
痛さのあまり顔が歪んで思わず目から涙が零れ落ちた。
ぼんやりと視界に映る怒りに歪んだ顔をしたクラスメートの女の子。
何だか急に胸が苦しくなって、私はその憎しみが込められた目から視線を横へと逸らした。
その瞬間、また乾いた音と共に頬に感じる痛み。
「ちゃんと聞きなさいよ!!」
「アンタ、何人の人を傷つけたら気がすむと思ってんの?鈍感もいい加減にしなさいよ。」
「・・・っ」
隣に立っていたもう一人の女の子が私の後ろ髪を引っ張ってさらに上へと向かせた。
その衝撃で目に溜まっていた涙がぽろぽろと地面へと向かって落ちていく。
悔しくて、わかっているけど悔しくて後ろで縛られた手にギュッと力が篭った。
じゃりっと地面と靴の底が擦れる音と共にもう一人の女の子が私へと近付いてくる。
その音が段々と近くに感じてきた時に私の髪を掴んでいた女の子二人が私の側からそっと離れた。
私はやっと解放された痛みから顔を歪ませ、奥歯を食いしばった。
「ねえ、顔を上げなさい。」
すぐ横の耳元から聞こえてきた声に私ははっとして顔を上げる。
ぼんやりと視界に映った顔に私は思わず目を見開いて開いた口を閉じることを忘れた。
胸が一度、大きく跳ねて、
そして音を立てることを忘れたかのように、私の息は止まった。
「・・・な、んで・・・・・・」
私はわかっていた。
周りを巻き込んでたくさんの人を傷つけていたことくらい。
だけど、それ以上にわからなかった。
どうすればいいのか、この気持ちが何なのか。
自分のことを知らなさ過ぎて、
周りに流されるようにふわりふわりと生きてきた。
そのせいで、一体何人の人がどれほど傷ついていたのだろう。
『今年も同じクラスだし、このまま三年も同じクラスだといいのにね。』
「どうして・・・小百合・・・・・」
掠れて出てこない声をやっとの思いで絞り出す。
小さく震えた声と、見開いた私の目。
そんな私を見て小百合は眉間に皺を寄せて小さく鼻で笑った。
「私、今まで切原に近付く害虫を全部処理してきたんだ。」
そう言って笑った小百合は他の女の子に同意を求めるように視線を私から逸らした。
「小百合はね、一年の頃から切原君がずっと好きなの。アンタ知らなかったでしょ?」
「最低だよねー。あとから出てきて見せつけのように目の前でイチャついて・・・ずっと一緒にいた友達のくせに!!」
「そ・・・んな・・・・」
あとの二人が私を責め立てるように口々に罵る。
小百合は何も言わずに冷めた瞳で私のことを見下ろしていた。
確かに小百合がテニス部を好きだって知ってはいた。
だけど切原君が好きだなんて一度も聞いたことがなかった。
どうして、どうして言ってくれなかったの?
ねえ、小百合・・・これ、嘘だよね・・・?
何かの、冗談だよね・・・?
次々に零れ落ちる止まることを知らない涙が私の頬を激しく濡らしていく。
息が苦しくて、
胸が苦しくて、
何も言葉が出てこなかった。
「あのね。アンタには知られたくなかったの。」
「・・・・・っ、」
「テニス部に興味のない、貴重な友達だったから。私が隠れてこんな低レベルな虐めやってるなんて・・・できることなら知られたくなかったんだ。」
一歩、一歩と私へ近付いてくる。
私から逸らされることのない冷めた瞳が、私を責め立てるように息をすることすら許してくれない。
噛み締めた唇から、かすかに血が滲んだ。
「でも、最近のの様子を見てたらさ、私も黙ってられなくなっちゃって。」
私の顎をそっと掴んで持ち上げる。
無理矢理合わされた目が、鋭く私のことを突き刺した。
「今までの虐めの首謀者は全て私。アンタ以外の害虫の虐めの首謀者も私。学年では私が指示を出せばみんな動いてくれるの。」
「さ、ゆ・・・り・・・・嘘、だよね?」
「・・・アンタ、どうして虐められ出したアンタの隣にいても私は虐めを受けなかったかわからない?」
「っ!」
「私が首謀者だからよ。アンタから情報を聞き出すために友達のフリを続けますって言えばみんな納得してくれたわ。」
乾いた音がまた響く。
さっきそこにいた女の子に叩かれた頬より、小百合に叩かれた頬の方が、何故だか無性に痛かった。
同時に、胸が張り裂けてしまいそうなくらいの痛みを感じた。
「悔しい?ムカつく?腹立たしい?」
「・・・・っ・・・」
「もっと泣けばいいじゃない!もっと痛がればいいんだアンタなんか!!」
お腹に感じる痛みより、胸が痛い。
頬に感じる痛みより、胸が痛い。
私はもう、ただ流すだけの涙を止めようとは思わない。
助けなんて求めようとも思わない。
ただ、自分の愚かさに唇を噛み締め続けるだけ。
自分のせいで苦しんで傷ついたみんなに、謝り続けるだけ。
素直にならなかった、私が悪いんだ。
「!!」
手放しかけた意識の向こうで扉の開く音と共に、
今一番聞きたかった彼の私の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。