ただ何となく。
君の存在はまさに空気のようで
必死に手を伸ばしてみても掴みどころなんてどこにもなかった。
紅-kurenai-
優しさに甘えて、
何がいけなかったのですか?
「お願い!!」
顔の前で手を合わせ、必死に懇願する私を冷ややかな目で見てくるのは友達であるはずの小百合。
放課後になって急にこんなことを言い出す私にきっと、どうしようもない馬鹿だと思ったに違いない。
「いいけど・・・何よ急に。」
「どうしても今日じゃないとダメなの!!ホントにお願いします!!」
「事情はわかった。けど、アンタ本当どうしようもない馬鹿だね。」
「うっ、返す言葉もございません・・・。」
そう、私は今日一日考えていた。
どうやってこのジャージを切原君に返そうか。
どんなに返そうと頑張ったっていざとなった時に、やはり面と向かっては無理だった。
名前を呼ぼうにも声がでないし、体も動いてはくれなかった。
そして放課後の今の今まで返す機会を逃し続け、最終手段、人伝で返そうという決断に至った。
が、そこでもまた問題だ。
一番手っ取り早いのは(一応)彼氏である仁王先輩に渡すこと。
しかし昨日の様子からしてそれは死んでも無理。
自殺行為と変わらないだろう。
そして私が思い浮かんだのは、運よく今日行われる学芸委員会に参加し、
丸井先輩に渡して切原君に返してもらおうという魂胆だ。
それに参加するには我がクラスの学芸委員である小百合の代わりに行くしか他ない。
小百合に渡して貰うっていう手もあったが私はついでに相談事をしたいということもあり、
どうせならこの機会にジャージを渡すのと同時に相談もしてしまいたかった。
そういった事情を小百合に簡潔に述べ、お願いすると、渋々ながらに頷いてくれたので
私は思わず感激のあまり目の前で帰る支度を始めた小百合に抱きついてしまった。
「ちょっと!やめてよ暑苦しい!!」
「ありがとーありがとう小百合ー!!!」
「わかったわかったわかったから!!私はさっさと帰りたいのよ馬鹿!!」
私のことをメリッと力強く引き剥がすと、鼻息を吐いて鞄を持った小百合が席を立ち上がった。
「言っておくけど。アンタ、そろそろその鈍感治さないと・・・えらい目見るわよ。」
少し瞳を揺るがせて、小百合は「じゃーね」と言って帰って行った。
私、鈍感なのだろうか。
まあ鋭い方ではないのだろうけれど・・・・・
小百合の言葉が妙に頭に引っかかって私は何だかもやもやした気持ちのまま委員会に向かうことになった。
「3年2組丸井ブン太遅れましたすみませーん。」
早く座りなさいと委員長から叱咤を喰らった丸井先輩が「へいへい」と特に悪気もなく教室の中へと入ってくる。
委員会開始直前に入ってきた私は、教室を見回してあの目立つ赤い髪の先輩がいないことに、
少しびっくりしてすぐさまどうしようかとソワソワしたままずっと一番後ろの端っこの席に座っていた。
5分ちょっとして丸井先輩が入ってきたことに安堵の息を吐きながらこっちに来てくれないかと必死な視線を送り続ける。
「お。」
一瞬目を丸くして私に気づいた丸井先輩が真ん中ぐらいの席に座ろうとしていたのをやめ、
一度引いた椅子を元に戻して一番後ろまで歩いてきてくれた。
よかった。気づいてくれた。
「よ、また代理?」
「はい。今日は無理矢理頼んで代わってもらったんです。」
「ってことは・・・・俺に会いに来たってこと?」
「え、あ、はいそうです。」
隣の空いていた椅子を引いて隣に座った丸井先輩が声を潜めながら話す。
私が今日参加したのは丸井先輩に会うためだと言えば、目を丸くして驚いていた。
「これ、切原君に渡してもらえないかなーと思いまして。」
「何コレ。うまいもん?」
「違いますよ。ジャージです。」
「・・・・ジャージ?」
丸井先輩は紙袋の中をそっと覗くと目を瞬かせて「あ、ホントだ。なーんだ。」と言った。
何を期待していたんだろうかこの人は・・・。
「これ何でちゃんが赤也に借りたの?」
「いえ、昨日教室で転寝してたら起きた時にかかってたんです。
切原君のだってのはわかるんですけど・・・・どうしても自分で返せなくて仕方なく・・・。」
「あー・・・・そっか。うん、わかった。」
納得してくれたらしい丸井先輩が頷きながらニッコリ笑って紙袋をそっと自分の足元に置いた。
それを確認すると、私は今日一日中張っていた緊張の糸が切れて途端に疲れが押し寄せてくるような感覚に襲われた。
よかった。これで何とかジャージは今日中に切原君の手元に戻ってくれる。
胸を撫で下ろして丸井先輩に気づかれないようにそっと安堵の息を吐いた。
「それにしても赤也がねえ・・・ってか何でちゃんは赤也のだってわかったわけ?」
「え、それは・・・・・・・」
突っ込まれると思っていなかった部分に突っ込まれ、私はハッとする。
そうだ。
私はどうしてこれが切原君のだって思ったんだっけ?
気がついたら切原君だと思っていたけれど・・・・。
私は段々と恥ずかしくなってきてじっと見られている視線から逃れるように俯いた。
「その・・・・・前にもあって・・・・・・匂いが・・・・・えっと・・・・・・・・」
「は?匂い?」
「あ、の!!だ、誰にも言わないでください!!」
「ええ!?な、急にどうした!!?」
私が意を決したように真剣な顔つきで丸井先輩の腕を掴むと、
先輩は驚いたように目を見開いて少し体を仰け反らせた。
「私、その・・・ジャージから香った匂いが切原君の匂いだったから・・・・このジャージは切原君のだと・・・思ったんです。」
「へえー匂いねえー。」
「な、何ですか!?そのいやらしい顔は!!」
「べっつにー。へえーそっかーへえー。」
「・・・・・・・・・!!」
ニヤニヤといやらしく笑いながら頬杖をついて私を見てくる。
何だかとっても恥ずかしくて、
自分が変態チックに思えて顔が真っ赤になっているのがわかった。
い、言わなきゃよかった・・・。
「でもさ、仁王に渡してもらえばよかったんじゃん?」
「え?」
「ジャージ。俺よかそっちの方が早くね?」
思いついたようにそう言った丸井先輩に私は眉間に皺を寄せる。
そんな私を見て何か思い出したのか、丸井先輩は「あ」と声を漏らしたあと、「悪ぃ・・・」と罰が悪そうに目を逸らした。
「そっか。そんな関係じゃねえ・・・よな。」
「いや、何ていうかその・・・昨日・・・・」
「あ、そうそう昨日!!」
「丸井君!!!」
思い出したように大声を出した丸井先輩に委員長から激怒のお叱りを受ける。
丸井先輩も肩を竦めながら「すんませんでしたー。」と少し声のトーンを落とした。
「このジャージを見て、仁王先輩の態度が少しおかしくて・・・」
「おかしい?」
「何かずっと怒ってるような・・・そんな感じです。」
私が視線を俯かせると、丸井先輩は一瞬だけ目を見開いて、それだけで全てを諭したかのように頷いた。
丸井先輩には何か思い当たることでもあるのだろうか、
彼は「そっか・・・」とだけ相槌を打って返すと、頬杖をついたまま委員長が黒板に書いている文字を目で追っていた。
「大丈夫。そんな顔すんなよ。」
「え?」
「俺が、何とかしてやるから。」
頭をポンと叩いて歯を見せて笑う。
そんな先輩をマジマジと見たあと、私も力なく小さく笑う。
先輩は「またそんな心配そうな顔しやがってー」と言って私の頬を抓ってきた。
うん、ちょっと痛いな・・・。
「ちゃんはさ、自分に素直になればいいと思うよ。」
「自分に、素直?」
「うん。否定ばっかしてないでさ。もっとこう・・・えっと、何て言やいいのかな・・・。」
「・・・否定、ばっかり?」
う〜ん、と唸り声を上げながら頭をガシガシと掻き、眉間に皺を寄せる。
きっと先輩は先輩なりに今私にアドバイスをくれようとしているのだろうけれどその言葉が上手く出てこないのだろう。
そんな先輩を私はクスリと笑って見ていると、不満そうな顔をした先輩がこっちを向いた。
「笑うなよ。」
「笑ってませんよ。」
「絶対ぇ今笑った。聞こえたし!」
「あはは、だって先輩ちょっと可愛かったんですもん!」
「・・・・可愛いってお前な・・・・。ってかやっぱ笑ってたんじゃんちっくしょー。」
拗ねたように口を尖らせて机に突っ伏す。
その仕草にやっぱり悪いけど可愛いと思えてしまって、私はまた押し寄せてくる笑いを堪えながら俯いた。
私はたぶん、どうしようもない馬鹿なんだ。
自分のことすらも自分でわからずに周りを巻き込んで迷惑ばっかりかけている。
それでも私の周りは優しい人ばかりで、文句一つ言わずに温かな優しい言葉を投げかけてくれる。
きっと、それに甘えてるんだ私。
本当は自分で解決しなきゃいけないことだって、こうやって丸井先輩に相談しちゃってさ。
どうしようもない、馬鹿だ。
「・・・・ありがとうございます。」
段々と自分が惨めになってきて、気づいたらぼそりと呟いていた言葉。
自然と口から出ていて、ほぼ無意識に近かった。
何だか無性に泣きたくなったけど、当たり前だけどこんなところで泣くわけにはいかず、必死でばれないように目蓋を押さえた。
こんなところで泣いちゃったら丸井先輩にかなり迷惑だ。
相談事を聞いてもらったうえにこれ以上迷惑なんてかけてらんないよ。
丸井先輩は伏していた顔をゆっくりと上げて虚ろな視線を私に向けた。
その丸々とした大きな目には少し驚きが混じっていたような気がした。
「・・・・・気にすんなっつーの。」
ふっと、緊迫していた顔が緩む。
その表情がやけに痛々しくて、何故だか私の胸がちくりと痛んだ。
・・・何故、だろう。
どうしてこんな顔をしたのか私にはわからなかったけれど、先輩はすぐにいつもの気さくな笑顔を貼り付けて私の頭をポンと叩いた。
「俺がそうしたいだけだし、お前がわざわざ気にすることはない。」
「・・・・はい、すみません。」
「だから謝んなっつーの!」
「ごめんなさいっ・・・!」
「だーかーらー・・・・っぷ。」
そう言って吹き笑うと、丸井先輩は遠慮もなしに私の頬を両手で摘んで横へと伸ばした。
思春期真っ最中な乙女になんてことするんだろうかこの人は・・・。
そして、先輩はそのまま私の顔をじっと見て、何か言いたそうに口を開いてまた閉じた。
見詰め合った目が、逸らせなかった。
「俺、ちゃんには幸せになってもらいたいから・・・・道、間違えんなよ。」
「では、今日の委員会を終わります。」という委員長の声と共に丸井先輩は立ち上がり、
頭の上に軽く今日三度目となる手を乗せてそのまま「じゃーな」と言い残してさっさと教室を出て行った。
残された私は一人、いまだそのまま座った大勢のまま叩かれた頭に自分の手を乗せる。
次々とダルそうに教室を出て行く他の生徒を見ながら、私はさっき言われた丸井先輩の台詞をもう一度頭の中に繰り返した。
―――――― 道、間違えんなよ。
この言葉は一体、どういう意味だったのだろうか。
いくら考えたって私にはわかる気配はなく、ただ一人、窓から見えるテニスコートを見下ろして自分でもわからない誰かの姿をさがしていた。
今私は間違えた道にいる。
次に別れ道があるのなら、きっと私は迷いもなくあの人がいる方へと足を進めてしまうだろう。