ただ何となく。
君の存在はまさに空気のようで
必死に手を伸ばしてみても掴みどころなんてどこにもなかった。
紅-kurenai-
本気の恋になるなんて、
一体誰が想像できたのだろう。
「よ!」
「・・・・何じゃ、丸井か。」
「ムカッ、俺の何が不満なんだよ何が!」
頬を膨らませて隣に座り込むブン太を横目で見遣ると、仁王は手に持っていた携帯を閉じて空を見上げた。
体重をかけたベンチの背もたれがギシッと軋む音を漏らす。
誰もがお腹が空き始める、3時間目の授業の始まりを告げるチャイムが辺りに鳴り響いていた。
「サボり?」
「そのつもり。まさかお前さんもとか言わんよな?」
「そのまさか。まあそう露骨に嫌がんなよ。傷つくだろぃ。」
「お前さんがいると授業より疲れるんじゃけど・・・。」
「ひっでぇ言い方。これやるから諦めろって。」
ほれ、と仁王の膝の上に可愛くラッピングされたマフィンを投げ置いた。
仁王はそれを手に取ると、奇怪な表情でブン太へと不満げな視線を向けた。
「コレ、女からの丸井へのプレゼントじゃろ?」
「おう、さっきすれ違い様に二年の女子から貰ったんだ。今日1時間目に調理実習だったんだとよ。」
「へー、それって何処のクラス?」
「さあ、知らねぇけど・・・何処でもよくね?」
「・・・・そうやね。」
ラッピングを丁寧に開けながら中身を取り出す。
袋から出されたマフィンからは何とも言えない美味しそうな甘い香りが漂ってきていた。
もちろん食べ物を他人にあげるなんてかなり珍しいブン太は他に貰っていた自分の分を取り出すと、ラッピングをビリビリ破ってさっさと食いついていた。
「甘い。」
「文句言うなら返せ。」
「嫌。」
「なら文句言わずに食えよ。ムカツク奴だなお前は。」
マフィンを一口かじって眉を寄せた仁王を一瞥してブン太は二個目のマフィンを口へと放り込んだ。
三個目のマフィンを手にした時、ふと、あることを思い出して口の周りと指を軽く舐めながら「あ、そういえば。」と声を漏らした。
「赤也のクラスだ。調理実習あったのって。」
「・・・何じゃ急に。」
二口目をかぶろうかどうしようか悩んでいた口を止める。
マフィンを袋に戻すと、仁王は突然話を変えられてついていけていない頭で少し考えた。
「いや、これ貰った時に確か赤也が俺に自分の失敗作を食わしてくれたのを思い出して。」
「便利な残飯処理扱いじゃな丸井君。」
「残飯じゃねぇっつの。見た目は最悪だったけどちゃんと食えたし味は良かったぜ。」
「へえ、赤也のくせにやるの。」
「何かしんねぇけど同じ班の女子が味付け係で男子がカップに入れて焼く係だったみたいなんだけど・・・・」
「赤也率いる男子が見事失敗、ね。」
「ビンゴ。そうまさにそれ。」
パチンと指を鳴らして仁王を指差す。
赤也らしいと仁王は笑い、まだマフィンを食べ続けるブン太の最後のマフィンを手に取った。
「あ、それは・・・!」
「ん、何じゃ?」
「赤也の班の唯一の成功作品!」
胸を張って言ってのけるブン太を一目見てマフィンに視線を戻す。
唯一の成功作品なんて言われたら途端にそれがとても輝かしく目に映り、思わず食べてみたくなった。
が、同時に疑問も浮かぶ。
何故それをブン太が貰えたのか、だ。
「何かその班にいた女子の一人が自分の分としてこっそり焼いてたらしいんだけど俺が物欲しげに見つめてたらくれたんだ。いい子だろぃ?」
仁王の考えを汲み取ったのか、ブン太は何故自分がこのマフィンを貰ったのかを仁王に話し出した。
何故だか仁王の頭にはその女子がじゃないかという考えが浮上する。
まさかな、と自分に苦笑しながらそのマフィンをブン太に返すと、ブン太はそれを手に取って小さく唸った。
「あれ、名前聞いたのに忘れちまったな。何だっけ?」
「・・・・、?」
「そうそれだ!・・・って何で知ってんのお前?」
ただ何となく聞いてみたが、これまた正解で。
不思議そうに首を傾げるブン太に仁王は小さな笑みを向けた。
「赤也の想い人もとい俺の獲物。」
ブン太の顔がおもいっきり引き攣ったのを仁王はただ笑って持っていた携帯で写メった。
「、大丈夫?」
今日の授業は全部終わった。
これでやっと解放される悪質な虐め。
私は盛大な溜め息を吐いて心配そうに私を見つめる小百合に小さく頷いてもう一度溜め息を吐いた。
「だから言ったのに。体操服なんて着たらさらに酷くなるって。」
「・・・・はは、まったくだね。」
「馬鹿。」
「言い返す言葉もないや。」
さっきから乾いた笑いしか出てこない。
何と言われようと全てが正論に聞こえて何も言い返せなくなるから情けない。
ああ、本当に憂鬱だ。
「よ、サン!」
「あ、切原君。」
背中をバシッと叩かれ、若干ムカッて思いながらも、その私の名前を呼ぶ声で誰がやったのかわかったので、
とりあえず怒りを抑えて振り返ると、やっぱり犯人は私の想像通りの切原君だった。
コイツ、私のことちゃんと女の子として扱ってくれているのだろうか。
ものすごく背中がジンジンするのですが・・・・。
そこで私はハッと思い出し、隣に座る小百合の顔色を窺ってみるも、彼女は恋する乙女のような表情をしていた。
本当わかりやすいなこの子。
そんなにもテニス部が大好きなんだねー。
「あ、そうそう。体操服洗って返すね。」
「おう、サンキュ。・・・・ってそうじゃなくって・・・・」
「え、何?」
「いや、・・・その・・・・そのせいでさらに嫌がらせ受けたんだろ?・・・悪かったな。」
頭をガシガシ掻きながら視線を俯かせる切原君に思わず私は目を瞬かせた。
まさかそれを言うためにわざわざ・・・?
切原君は口を尖らせながらその罪悪感で眉を下げて苦笑っていた。
「あと、友達とか・・・・大丈夫か?」
「友達?」
「何か俺のせいで友達とうまくいってないっつーか・・・そいつらに嫌がらせされてんだろ?」
「・・・ああ・・・・大丈夫だよ。私には小百合がいるし。それに切原君のせいじゃないよ。」
「小百合?・・・あ、犬飼サンか。」
そう言うと、切原君は隣に座る小百合に視線を向けた。
小百合は私の一年からの友達なんだ。
私は小百合がいれば大丈夫だし、切原君がそんなに自分を責めることはないのに。
と思う反面、切原君って意外と律儀なんだなと失礼なことを考えてしまう。
普段からの彼を見ていると想像もつかないこの優しさに思わず私も、小百合も驚いているばかりだ。
切原君はホッと溜め息を吐いて肩を下ろすと、安心したように小さく笑った。
「そっか。犬飼サンとサンって仲良しなわけ?」
「は一年の時の初めての友達なんだよ、ねー?」
「そうそう、席が前後だったから・・・お互い初めての友達だったよね。」
「今年も同じクラスだし、このまま三年も同じクラスだといいのにね。」
「あはは、私も小百合とはずっと同じクラスがいいや。」
切原君は安心したのか、「それじゃ、部活行くわ。」と行ってその場を去った。
この時、切原君が何を思って私達の会話を聞いていたのかなんて、信じきっていた私は想像もつかなかった。
もうすぐ部活が始まる。
コートの向こうに見える正門から友達と楽しそうに笑って出て行くさんの姿が目に入る。
せっかく休み時間に会いに行ったが、タイミングが悪く、彼女には会えなかった。
「・・・・ふう、肩凝った。」
ずっと首にかけていたタオルを取り、肩をほぐす。
あのあと丸井から貰ったさん手作りのマフィン。
それを鞄の中に入れたままの俺は、赤也にあげるべきか、俺が食べるべきか。
悩むところじゃけど何となく赤也にあげるのは気が引けるのであとでこっそり自分で食べようかなんて意地悪なことを考えてしまう。
ただあのマフィンを貰ったあと、無性にさんという人物に会いたくなって教室を訪れたというのに。
今日はついてなかったな。と肩を落としながらも、あのマフィンでもしかしなくとも赤也を虐めることができるんじゃないかと胸を躍らす。
本当自分はつくづく悪趣味だ。
SかMかで答えるなら間違いなくSの属性だ。
「仁王、今日俺が泣く泣くやったマフィンちゃんと食ったか?」
「いや、まだ。」
ラケットをくるくる手首で回しながら丸井が隣にきて言った。
丸井に赤也の話をすると、コイツもまた面白そうだと言って悪乗りしてきたうちの一人だ。
といってもそんなに首を突っ込む気はないらしく、ただ俺にさんの手作りマフィンをくれただけ。
俺らは本当、後輩を虐めるのが好きならしい。
俺も丸井も本当に性質が悪いの。
「で、今日もそのちゃん?とメールするのかよ。」
「おう、そのつもりじゃけん。」
「お前さ、それって本当に赤也からかってるだけなわけ?」
眉を寄せてガムを膨らませる。
今日はグリーンアップルなわけね。
風に乗って香ってくる香りは爽やかなリンゴの香りだった。
「手が込みすぎとでも言いたそうじゃの。」
「あったりめぇだろぃ!?普通そこまでしないっての!」
「・・・ま、俺も暇なだけナリ。飽きたらやめるぜよ。」
「飽きたらってお前なぁ〜・・・。」
丸井が何か言いたそうに顔を顰めたと同時に赤也の丸井を呼ぶ声がコートに響き渡る。
パチンとガムを割って丸井は「ほどほどにしとけよ。」と言い残して俺の元を去った。
「暇なだけ・・・・か。」
自分で言った言葉をもう一度口にすると、何だかそれが嘘のように思えてしまうから笑える。
俺は頭をボリボリと掻くと、踵を返してコートに向かった。