ただ何となく。
君の存在はまさに空気のようで
必死に手を伸ばしてみても掴みどころなんてどこにもなかった。
紅-kurenai-
このまま何も知らなければ、この小さな幸せはいつまで続いたのですか?
「あ、仁王先輩おはようございます!」
「ああ、おはようさん。」
テニス部の二年生部員に頭を下げられながら廊下を渡る。
あまり踏み入ることのないこの一つ下の階は、自分達三年生とはまた違った雰囲気を醸し出していた。
自分が歩くだけで廊下にいる生徒(女子)からキャッキャという浮ついた声が聞こえてくる。
滑稽だった。
「あ、仁王先輩!何してんスか!?」
廊下側の窓から体を乗り出して脳天気に叫ぶ後輩は、テニス部のどの後輩よりも見知っている後輩、赤也だった。
仁王は足を止めると赤也に近寄る。
「ちょいとさんに用があっての。」
「・・・あ、そっすか。」
そう言うと途端に声のトーンが下がった赤也を見て、仁王は込み上げる笑いを必死に堪えた。
実に面白い。
自分は本当に悪趣味だなとつくづく思う。
だけどこの後輩の自分では気づいていない態度の急変を見るのは実に面白く、飽きるものではなかった。
「で、さんどこ?」
「・・・・・今いねぇっスよ。」
「そりゃ残念やの。やっぱり連絡入れておくべきじゃったか・・・。」
「伝言なら俺が承りますけどー?」
普段ならめんどくさがってそんなこと頼んでも断る赤也に、仁王は更なる笑いを堪えて口元に笑みを浮かべた。
そんなことに気づきもしない赤也はただ面白くないといった表情で仁王を見上げていた。
「いや、たいした用じゃなか。ええよ。」
「そ。じゃあまた放課後部活で。」
「なんじゃ、今日の赤也は素っ気無いのー。俺ちとショックじゃけん。」
「・・・・・・・・・別にそんなことは・・・。」
ないとは言えない。
100人に聞けば100人とも認めるだろうその素っ気無さ。
口噤む赤也を見ながら仁王は喉を鳴らして笑った。
「さんと、遠足の時何かあったんじゃって?」
「え?」
「メールで聞いた。」
「・・・まあ、急斜面から落ちただけっスよ。」
赤也は少し照れたように、だけどそれを悟られないよう必死に隠しながら頬を人差し指で掻いた。
あの時、自分はに対して何を言おうとしていたのか。
今考えてもよくわからなかった。
「まあ、また来るぜよ。シクヨロ。」
「ブン太サンかアンタは・・・。」
結局、仁王はに何を言いに来たのかわからないまま背を向けて帰っていってしまった。
その背中をじっと見つめながら赤也は自分の中に妙な感情が芽生えていることに気がつくことはなかった。
「切原別れたんだって。」
休憩時間、食堂に買い食いしに行ってパンを購入。
それをもさもさ頬張りながら友達の小百合と教室に向かって歩いていた。
小百合はこの学校で私の一番の友達で、テニス部が大好きだからよく私は試合なんか見について行かされる。
突然言われた朗報に私は思わず耳を傾けた。
「それ本当!?」
「アハハ、やっぱり食いついた!」
「ど、どういう意味?・・・嘘なの?」
「いや、本当だよ?ただこの話をにしたら必ず食いつくと思って。」
「何で?」
「え、だっていい感じなんじゃないの?アンタと切原。」
「はい!?」
驚いた私は最後の一口を味わうまでもなく飲み込んだ。
危ない危ない。
喉詰まらせるところだったよ。
小百合はそんな私を見ながら「ねえ、違うの?」とさらに問い掛けてくる。
「べ、別にそんなことないし!普通だよ普通!」
「えー、でもしおりをアンタん家届けるのわざわざ自分から進んで手をあげたんだよ?」
「そ、そうなの?」
「うん。」
聞いて初めて知った。
あ、でもそれは私にアドレスを聞くためだったのかもしれない。
だとしたら後先考えずに手をあげちゃいそうだ切原君は。
それで杏璃ちゃんも怒ってたわけだ。
なるほど、と一人で頷いていると隣の小百合から何とも言い難い視線を向けられた。
「でも気をつけなよ。仲良いのはしょうがないけど、アンタ目つけられるよ?」
「?、何が?」
「いやだから!テニス部に近付く害虫は陰で女子に虐められるって言ってんの!」
「あ、そういうことね!理解した!」
私が嬉しそうに手を叩くと、小百合が呆れたとでも言いたげに溜め息を吐いた。
「あのね〜ちゃん?」
「何だろう小百合ちゃん。」
「私はアンタが虐められてほしくないから言ってるの!好きじゃないんだったらむやみやたらに近寄らないこと!わかった!?」
「えーう、うん?」
「はっきり返事しろ!」
「は、はい?」
「馬鹿!」
教室のドアを開け、入る。
小百合はぷりぷり怒りながら自分の席に向かって行ってしまった。
そんなに私のことを心配しているのか。
何だか照れ臭いな、なんて思いながら私も自分の席につこうとしたら誰かが私を呼ぶ声がした。
「サン!」
「あ、切原君・・・。」
今近寄るなと言われたばかりの切原君が私の元へとやってきた。
即座に私は小百合に視線を向けると、あちらも私を見ていた。
や、やだな。
何か話しにくいじゃん。
「ど、どうしたの?」
「いやあのさ。さっき仁王先輩がサン捜しに来てたから。」
「え、仁王先輩が?ホントに?何の用だろう・・・。」
ちょっと意外な御用だったので私は仁王先輩が私に何の用があるのかと考えた。
が、考える間もなく何もない。
だって、それほど仲が良いわけでもないし。
ただのメール友達みたいなものだし。
「じゃ、そういう訳で。」
「え、あ、うん。」
それだけを言うと、切原君は自分の席へと戻って行った。
な、何だったんだろう一体。
わざわざ仁王先輩のことを知らせに来てくれたのだろうか。
あの切原君が?
あの面倒臭がり自分の利益になること以外で他人のことは全く興味なし。
そんな切原君が?
珍しいこともあるものだ。
改心でもしたのかと、ちょっぴり嬉しく思っていると、私の頭に何かが当たった。
落ちた方を見てみると、それは丸められた紙屑だった。
「やっだー。当たっちゃったー。」
「ぷぷ、勘違いも甚だしいよね、さんって。」
「切原君も何でさんなんかに・・・。」
口々に聞こえてくる野次の嵐。
ひそひそと話していたって丸聞こえだっつの!
私は投げ付けられたであろう紙屑を拾い上げるとごみ箱まで大股で歩いて行った。
途中で通る切原君の席に自然と目がいく。
彼は机に突っ伏して寝ていた。
「わっ!」
何かに足を躓き、地面に両手をついて引っ掛けたであろう相手に振り返り、睨み付ける。
にゃろう。
「んあー・・・何してんのサン?」
「・・・こけただけ。」
「ぷぷっ、ドジだなーアンタ。」
「うっさい。」
「大丈夫かよ?」
「うん、ちょっと擦りむいただけ。大丈夫。」
寝ていたはずの切原君が私に話し掛けると、また背後からひそひそ声があがる。
それに若干顔を歪めながらも私は立ち上がってごみ箱に向かった。
ッ、誰だ今死ねって言ったの!
お前が死ね!なんて思いながらもやっぱり少し前までは普通の友達だっただけにちょっと胸が痛んだ。
はあ。溜め息が出ちゃう。
「んにゃ、体操服が・・・。」
「あーあ、ドロドロじゃん。どうすんの?」
体育の時間は更衣室へ行こうと、机の横にかけてあった体操服を入れてある鞄を手に取ると、少し違和感を感じたから開けてみた。
すると予想通り体操服がありえないくらい汚されていて、さっきの時間は筆箱が隠されていた。
とても着れたもんじゃない体操服を片手に震えていると、ひょいと後ろからそれを奪い取られた。
「あらら、派手にやられたな。サン。」
「き、切原君!」
「体操服これ以外持ってねえの?」
取り上げた体操服を広げて私を見る切原君。
隣にいた小百合が小さく声を上げて嬉しそうな顔をした。
わっかりやすい子。
私は小さく首を左右に振って体操服を持っていないことを示した。
すると切原君はちょっと待ってろと言って自分の席へと向かった。
「じゃあサンこれ着れば?ちょっと汗臭いかもしんねぇけど。」
「ちょ、いいよ!そんなことしたら切原君の体操服なくなっちゃうじゃん!」
「あーいいっていいって!俺が原因だし俺長袖の体操服も持ってるし。」
そう言いながら私に半袖の方の体操服を投げる。
胸元には切原と少し汚い文字で書かれてある。
顔を上げてお礼を言おうと思ったらもう切原君は教室にいなかった。
きっともう着替えに行ったのだろう。
早く行かないと私も小百合も遅刻する。
「ちょっと!そんなの着たらよけいに反感買うよ!」
「・・・うん、でも・・・。」
「!どうすんのよ!」
隣で騒ぐ小百合を宥めながら貸してもらった体操服をにぎりしめる。
一度着たものだろう。
ふと、昨日も匂った切原君の香りが鼻を掠めた。