ただ何となく。
君の存在はまさに空気のようで
必死に手を伸ばしてみても掴みどころなんてどこにもなかった。
紅-kurenai-
好きだという気持ちなんてまだそんなに知らなくて。
無邪気な私はたくさん君を傷つけた。
「何?何か用か?」
朝早い学校。
は今、テニス部の部室の前に立っていた。
あまり関わりがないだけにやはり入りにくいということもあり、入り口で少し入るかどうか戸惑っていた。
しばらくして、こんなところでうじうじしていても仕方ないと意を決したは部室のドアをノックする。
小さな返事のあと、2年生からもかなり人気な仁王が部室からでてきた。
開いたドア越しに見える部室の中は人の気配はない。
きっと朝早いからまだ部員は来ていないのだろう。
「どした?」
「あ、いえ・・・その、これ・・・・・」
「?、ジャージ?」
差し出した紙袋の中に、綺麗に洗濯して畳んである昨日のレギュラージャージ。
仁王はそれを受け取ると中をそっと覗き、首を傾げた。
「昨日の試合の時、誰かが寝ていた私にこれをかけてくれていたみたいなんですけど・・・」
「それが誰だかわからん。てことか?」
「はい。起きた時にはみんな帰ってしまってて・・・朝練で使うかなと思って朝一で持ってきたんです。」
「ほー、アンタ見かけによらず律儀じゃな。」
「・・・・褒めてるんですかそれは・・・・。」
が呆れた表情を浮かべると仁王は苦笑いを浮かべ「冗談。」と言い、紙袋を右手に持ち替えた。
仁王の中では既にこのジャージが誰の物かわかりきっており、目の前の見たこともないこの女の子に少し興味ありげな視線を向けた。
何てったってあの赤也が・・・・そんな思いでこれから起こることに期待を寄せて口元を綻ばせた。
「じゃあ俺からこのジャージは渡しとくぜよ。」
「あ、ありがとうございます!」
「いやいや・・・それよりもお前さん、名前教えてくれんか?」
「名前・・ですか?」
「そ。名前。」
ニッコリ。貼り付けたような笑みを浮かべた仁王を恐る恐る見上げては思う。
胡散臭いな・・・・と。
しかし、親切を仇で返すのも癪に障るのでは仕方なく名前を教える決心をした。
「・・・、です。」
「ね。よし、じゃあさん。これからも宜しく。」
「え?・・・あ、よろしくお願いします!」
「ん。」
差し出された手を取って握手を交わす。
は絡みづらい仁王に少し戸惑いながらも相手は先輩なので一応は好意を見せた。
「(宜しくって・・・何故?)あ、じゃあ私もう行きますね。」
「おう、じゃあな。」
「あ、そうだ仁王先輩!」
部室を少し離れたはドアを閉めようとしていた仁王に振り返る。
仁王のドアを閉める手が止まった。
「ジャージの人に有難うって伝えておいてください!」
それだけ言うと今度こそは教室に向かって歩いていった。
好きだなんて気づかなかった。
甘く見すぎた恋に、俺は何度も後悔を背負った。
「おはようございまー・・?、今誰と話してたんスか?」
「ああ、おはようさん。」
仁王は肝心な質問には答えずに挨拶だけ返すと部室の中へと入っていった。
部室につく前、仁王と女の子の声が聞こえていたもののその声の主の姿は壁が遮っていて見えていなかった。
赤也は首を傾げると「ま、いっか。」とさほど気にも留めずに続いて部室へと入った。
そこで気付いたこと。
部室には仁王以外誰もいなかったのだ。
「え?みんなまだ来てないんスか?」
「何言っとる。今日朝練なかとよ?」
「ええ!?まじっスか!?そんなの俺聞いてないし!」
紙袋を机の上に置き、携帯を取り出して椅子の上に座る仁王にあまりにもショックで泣き出しそうな表情で歩み寄る。
そんな赤也を仁王は「昨日帰り際に言うとった。」と冷ややかに突き放した。
「何でないんスか!?」
「試合の次の日だから。しんどいじゃろ?」
「えー!それなら俺もっと寝てたのにー!!そういうことは早く言ってくださいよ仁王先輩!」
「だから聞いてなかったんはお前じゃろバカ也。」
朝からキャンキャン煩い。
とかなりウザそうに視線を投げ掛けられ、肩を落とす。
昨日ちゃんと話を聞いていたのなら今頃はすやすやと気持ちのいい睡眠が取れていたのだろうなとそんな自分を想像すると溜息しか出てこなかった。
「じゃあ何で仁王先輩はこんな朝から部室に来てんスか?まさか仁王先輩も間違・・・」
「うわけがなか。お前と一緒にすんなバカ。」
「酷ッ!じゃあ何で部室にいるんスか?」
携帯をパタンと音を立てて閉じる。
足を組んで前屈みになり、頬杖をついて目の前で不信の目を自分に向けてくる赤也を見上げた。
口元には先ほどのように笑みを浮かばせて。
「早起きは三文の得ってな。」
「は?」
「朝練はいつもあるじゃろ?だからただ体が勝手にいつもの時間に起きただけじゃ。」
「ふーん、そうなんスか?それなら家にいればいいのに・・・。」
「だから三文の得。今日は何か面白い事があるような気がしてな。」
「面白い事?いい事じゃなくて?」
面白そうに喉を鳴らして笑う仁王を不思議そうに見つめて首を傾げる。
そこで仁王は先ほどから受け取った紙袋を手に取り、赤也に差し出す。
それもまた赤也が何事だと思いながら受け取った。
まさか仁王からのプレゼントではないだろう。
何か仕掛けでもしてあるのだろうかと妙な心配を胸に抱き、恐る恐る紙袋を覗き込んだ。
「あ、ジャージ。」
「それお前さんのじゃろ?」
「え、あ、はい?でも何で仁王先輩が・・・?」
これは昨日クラスの女子にかけて帰った物。
本当は帰りに回収して帰ろうと思っていたのだがかけていたことをすっかり忘れてそのまま家に帰ってしまったのだ。
それを何故仁王が持っているのだろうと疑問が浮かんだ。
「さっき借りた言うてた女の子が持って来た。」
「サンが?じゃあさっきのって・・・」
「そ。サン。」
仁王は携帯をポケットにしまって椅子から立ち上がり、赤也の前に立った。
「赤也、彼女おるんじゃから他の女に手出ししたらいかんぜよ。」
「はあ!?」
心底呆れた声を上げて自分の肩に置かれた仁王の手を退ける。
仁王はいまだ楽しそうに笑っていた。
「手を出すって・・・ジャージかけてあげただけっスよ!」
「ククッどうだか。あんま他の女に目移りしとったら彼女からとんでもない仕打ち受ける羽目になるぜ?」
「・・・それ、経験談?」
「まさか。」
何故親切してあげたことがこの人にとっては目移りとして取られてしまうのか。
赤也は呆れて反抗する気にもならなかった。
確かに自分には付き合って三ヶ月すぎたばかりの彼女がいる。
告白されて可愛かったからOKを出して気がつけば三ヶ月。
前からちょくちょく付き合ったりはしていたが三ヶ月も続いたのは今の彼女が初めてだった。
「それにしても可愛かったなさん。もろてもええ?」
「・・・今の彼女サンは?」
「昨日試合の後に捨てられた。」
「あーあ、目移りばかりしてるからっスよ。当然の仕打ちっスね。」
赤也が軽蔑した視線をくれると「勝手に寄ってくるんじゃ。」と羨ましくも恥ずかしい台詞をいとも簡単に口にするとテニスバッグを肩に担いだ。
「さんねえ・・・フリー?」
「俺が知るわけないっしょ?フリーなんじゃないっスか?」
「ふーん。じゃ、さんにアドレスでも聞いといて。」
「な、何で俺が!」
「俺とさんの恋のキューピット。よろしくな。」
「はあ!?」
部室を出ていく寸前、「今日中にシクヨロ。」と赤也に背中を向けたままブイサインを左右に振りながら出ていった。
赤也は口を開けたまま呆然と立ち尽くす。
今日中と言われたらちゃんと今日中に聞き出さないと後が怖い。
逆らうことは許されない。
絶対王政も呆れるくらいの仁王の先輩服従制度に赤也は大きな溜め息を吐いてさっきまで仁王が座っていた椅子に腰を下ろした。
さっきからずっと頭が痛い。
もしかすると風邪かもしれない。
怠い足を必死に動かして何とか二階にある教室まで歩いていった。
「あら、がこんな早くに学校来るなんて・・・今日は雷でも鳴るんじゃない?」
「うっせ。やっぱ今日はもう帰る。」
「今日はもうって今まだ何も始まってないし。」
教室のドアを開けて中に入るわけもなく、今日一日こんな状態で授業受けて楽しいものなのかを考える。
きっと話を聞いてたって聞いてないも同然だろうし。
受けるだけ無駄ってもんならさっさと家に帰って病院行って犬と遊んでた方がいいと思う。
よし、そうしよう。
そうと決まれば少しの迷いもなく軽々と踵を返した。
たぶん今日私の姿を学校で見かけた人は五人もいないと思う。
どうも今日は気分の乗らない日だなと軽く鼻を啜って校門を出ていった。
「えーっと、今日の欠席者は・・・?は休みか?」
今年赴任してきたばかりの新米教師が出席簿を付けながら教室を見回した。
その声を聞いて伏せていた上半身をばっと勢いよく上げ、サンの席に視線を向けた。
マジだ。マジでサンいねえし。
あれ?今日の朝部室に来てたんじゃなかったっけ?
なんて考えながら今日中にアドレス聞かなきゃなんねえのになんてこった。
と内心焦っているとサンのお友達っぽい女子が思い出したように声を出して言った。
「さんは風邪っぽいらしくて帰っちゃいました!」
「そうかそうか。明日遠足だし、帰った方がいいよな。わかった。」
出席簿に何か書き込みながら頷く。
だけどすぐに何か思い出したように「あ!」と声を出した。
あーマジどうしよう。
俺仁王先輩に殺される!
何で帰っちゃうんだよサン!
・・・ってか明日遠足だったっけ?
俺知らねえし。
「遠足のしおり。に誰か渡しに行ってやってくれないか?」
「!」
「クラス単位の遠足だしクラスの奴にしか頼めないからな。誰か家が近くて暇な奴はいないか?」
「はーい!はいはーい!切原赤也行っきまーす!」
「・・・え?」
先生だけではなくクラス中の視線が集まる。
それはもちろん教室の真ん中で空気を読めずに手を挙げている俺に。
「・・・切原、か?」
「はい切原っス!」
「いや、進んで出てくれるのは有り難いんだが・・・部活はいいのか?」
先生は俺の部活のことを心配しているらしく、俺に行かせることに少し蟇目を感じているらしい。
俺はそんなことよりもっと大切なことがあるんだって!
仁王先輩に殺されるんだって!
俺の強い意思に折れたのか、先生は俺に明日の予定がびっしり書かれたしおりを俺のとサンのとで小さな紙切れ二部を手渡された。
別に何てことなかったんだ。
それはまだ未発達な恋にちっとも気づかなかった俺のミス。