君が教えてくれたモノ
死にたくないと願う事が罪なのか。
だとしたら、何故僕は生きることが出来ない身体だったのでしょうか。
『ねぇ、どうしてキミはそんなにも怖い顔をしているの?』
黄色いボールが転がる。
それを追って歩みを進めると、辿り着いた先は不思議そうに首を傾げた同じ年くらいの女の子。
『お前、誰?』
『…キミも誰?』
『俺ん家勝手に入ってくんな。通報すんぞ。』
『勝手にじゃないよ。入る時ちゃんとお邪魔しますって言ったもん。』
そう言ってボールを拾って俺へと差し出す。
それをラケットで受け取り、斜面を滑らかに転がして弄んだ。
変な女。早く出て行けよ。誰だよ。
そんなことを考えながらじっとソイツを見つめると、その女はフッと笑ってこう言った。
『私は朱音。アンタの隣の家に住んでるから暇になったらまた来ていい?』
ピッピッピッ
さっきから規則的な機械音が耳に障る。
金属音があちらこちらから聞こえてきて、落ち着きがなかった。
日本語? いや違う。
だって会話がうまく聞き取れない。
でもそんな中、ただ聞こえてきたのは
「大丈夫、君はヒトリじゃないよ。」
そんな、優しい声。
***
こんこん
ドアが鳴って、すぐに返事を返すとそこから顔を出したのは様子を窺うような表情のだった。
そんなに笑顔を浮かべて入るように促すと、彼女は安心したように部屋の奥へと入ってきた。
「滝、調子はどう?」
「うん、大丈夫。心配いらない、元気だよ。」
「そっか、よかった。はいこれ、お見舞いの品。」
「悪いね、ありがとう。」
から白い紙袋を受け取って突っ立ったままの彼女に座るように促した。
彼女は言われた通りに近くのパイプ椅子に腰掛け、悪戯に笑って僕の顔を覗き見る。
「なーんて、これ跡部からだよ。」
「だろうね、が買えるはずがないよこんな高級菓子。」
「…やっぱ高級菓子なんだソレ。」
「うん、値段は聞かない方がいいかもね。目玉飛び出るよ。」
「……いくら?」
「パウンドケーキ一個千円くらい。」
「千円んんん!?それを跡部は滝に十個も買ったの!?バカ!?アイツ馬鹿!?」
「まあ一中学生が友達如きに一万円分もお見舞いの品を送るのは常識じゃないよね。僕としては有り難いけど。」
見るからに高級そうなブランド名が印刷されたパウンドケーキを手に取り笑う。
本当に、跡部の金銭感覚を疑ってしまうような代物だ。
別に僕相手にこんなお見舞い品くれなくたっていいのに。
でもまあ、お気遣いのお心は有り難く頂戴しておくとしようか。
「ねえ、傷口…まだ痛む?」
「んーそうでもないよ。血はいっぱい出ちゃったけど傷は浅いし。」
「…ごめんね。私を庇ったせいで…、」
僕の胸元を見つめ、肩を落とす。
彼女の視線の先の服の内には、包帯でグルグルに巻かれた傷口がある。
そう、あの時咄嗟にを庇って秋乃に付けられた傷だ。
もう二日前のことになるのかな。
ドアの窓部分のガラスの破片だっただけあって、刃先は短く傷口は浅かった。
急所も余裕でずれていたし、命に別状はなかった。
意識もすぐ取り戻したし、入院もどうやら五日ほどで済みそうだ。
だけど、傷付けられたのが僕じゃなかったら、どうだったんだろう。
あの時、僕が彼女の前に立ちはだからなければ、完全に軌道は彼女の顔面に向かっていた。
そのまま秋乃は彼女の顔を傷つけ、消えない傷を残していたかもしれない。
もしくは、そのまま他の箇所まで切りつけ、致命傷を与えていたかもしれない。
考えただけでもゾッとする。
本当に、傷付けられたのが僕の胸でよかったって思う。
それは僕にとっても、秋乃にとっても。
彼女を傷付けなくてよかったって、本当に思うんだ。
「違うよ、。」
「え?」
優しく笑って、彼女の手を取る。
はゆっくりと顔を上げ、驚いた表情を見せた。
「ここは“ありがとう”でしょ。」
驚いた表情は次第に泣き出しそうな表情へと変わっていく。
だけど彼女は泣くことなく、ただただ僕を見つめて視線を逸らさない。
どれだけ時間が経ったのかはわからないけど、しばらくしてはフッと笑って僕の手をギュッと握り返した。
「“ありがとう”、滝。感謝するわ。」
どういたしまして、その言葉を込めて僕は彼女の頭をそっと撫でて微笑んだ。
彼女は擽ったそうに笑って「でもやっぱりごめんね。」と続けて言った。
どうやら僕への負い目は消えないらしい。
別にそれはそれで構わない。
僕は気にしていない、それをわかってさえくれればそれでいい。
「そういえば、跡部達部活終わったらここ来るって。」
「そっか、毎日悪いね。そういえば、昨日退院して今日から学校行ったんでしょ?部活は?」
「私やっぱり帰宅部だわ。部活は合わない。」
「…そう。まあ元は帰宅部だったんだし、無理にとは言わないけどね。」
「うん、ありがとう。」
はそう言って満足そうに微笑んだ。
今となってはが部活に戻ろうが、辞めようがそれはどちらでもよかった。
が自ら望んで辞める道を選んだのなら、僕は何も言わない。戻ってくれなんて、言えない。
二日前までは真っ青だった顔色も今では元気を取り戻しているようだし、精神状態も悪くはなさそうだ。
本当はもう少し入院した方がいいと医者にも言われたみたいだけど、は昨日の朝、退院したらしい。
今日のお昼から学校に行くと昨日お見舞いに来てくれた時に言っていたから、今日は帰りに直接来てくれたんだろう。
彼女の制服姿を目にするのは本当に久しぶりな気がして、日数にすればそれほどでもないのに
何だか酷く懐かしいもののように感じられた。元気になって良かったって、心から思うよ。
「で、どうなの?家の方は。」
「…あれっきり、まだお母さんと顔合わせてない。」
「家にはいないの?」
「帰ってきてないみたい。仕事…なのかな?」
「そう…か。秋乃もあれから姿を見せてないんだよね?」
僕の問いに、は小さく頷く。
さっきまでとは違い、の表情に少し蔭りができた。
「病院にももういないみたいなの。あんな身体で、一体何してるのかな。」
「…ま、秋乃は大丈夫だと思うよ。秋乃単独の行動じゃなくて、跡部や忍足が絡んでると思うし。」
「そうなの?」
「たぶんね。それより、の小母さんの方が心配だな。ちゃんと捜さなくていいの?」
「……うん。そうなんだけど…」
言葉を濁し、俯いた視線の睫毛が揺れる。
不安と動揺が隠しきれていないその瞳は、酷く困惑した色を見せていた。
彼女と彼女の母親の間の溝は、年を重ねるにつれ、どうやらその深さを増しているらしい。
それは彼女一人の力では埋めようのない深さになってしまっているようだ。
彼女一人がどんなに足掻いたところで、母親が彼女に背を向けたままでは、どうにもならない。
大怪我をし、入院までした自分の一人娘が退院したというのに、姿を見せない母親。
彼女の母親が普通でないことは何となくだけど知ってはいる。
だけど、どうして彼女の母親は彼女がこんなになってもずっと放置し続けているんだろうか。
答えを出してくれる人がこの場にいないのだから、疑問は消える事はない。
「ねえ、。」
「ん?」
が顔を上げたのと同時だった。
病室のドアがガラッと開いて、
「よーっス元気か滝ー!!見舞いに来たぜー!!」
「あっちぃ!何か飲み物ねぇーの!?」
「あーちゃんも来てるー!!」
「他の患者に迷惑です。先輩達静かにしてください。」
「失礼します。滝先輩お見舞いに来ましたよ!」
宍戸を先頭に岳人、ジロー、日吉、長太郎が病室の中へと入ってくる。
一気に騒がしくなった病室が、さっきまでの重い空気を消し去った。
病室に入ってくるなり岳人が遠慮のかけらもなくベッド横にある簡易冷蔵庫をガバッと空けて言う。
「いやーあっちぃなマジで!お、アクエリあるじゃんいっただきー!」
「それ俺が昨日置いてったやつだろ!飲むんじゃねぇよ!」
「んあ?ケチだなお前一口ぐらいくれよ!」
「ちょっテメェ全部飲む気だろふざけんな返せ!」
手を出す前に空になってしまったペットボトルを岳人はしてやったりな表情を浮かべて顔の前で翳す。
それを見た宍戸の機嫌はみるみるうちに悪くなり、額の汗を拭って舌打ちを鳴らした。
「後でぜってぇー奢らす!」
「俺今財布ん中八十円。絶対奢らねぇー。」
「やった勝った俺百三十円だCー!」
「…せめてもうちょっと持ちましょうよ、先輩達。」
「うっせーな日吉!親と喧嘩して収入源絶たれてんだよ今!」
ムッと口を尖らせて岳人は「マジ謝って金貰わねぇーと…」とぶつくさ垂れる。
そんな彼らのやり取りを呆気にとられて一部始終を見守った僕とが漸く口を開く。
「病院なんだからもうちょっと静かにしようよ。てか私達そっちのけで何盛り上がってんの?」
「まったくだよ。僕を見舞いに来たんじゃないの?何しに来たのさ。てか宍戸、冷蔵庫勝手に使わないでよね。」
「…いいじゃねぇかよ、アクエリ一本冷やすくらい。ケチだな。」
いや、別にいいよ?冷やすくらい、僕だって心広いし。
でもせめて一声かけてよ。知らなかったよ、アクエリ入ってたのなんて…。
それで知らずに勝手に飲んだら怒るんでしょ?まったく、理不尽なんだよ。
「そういや、跡部と忍足は?」
「…ちょっと用事あっから後で来るって。」
「ふーん。一体何してるのやら、だね。」
「さあな。俺達にはまだ言えないとかそんなんだろどうせ。」
宍戸が帽子を脱いでの隣の椅子に腰掛ける。
ギシッと音が鳴って、病室は一瞬だけ静寂に包まれた。
「今朝、退学届け出てたって。」
ボリュームがなくなった前髪を片手で掻き分け、宍戸が言った。
一瞬意味がわからなくて、宍戸の後ろに突っ立ってる四人に視線を這わせてみたけど、
どの顔も申し訳なさそうに俯いているだけで、僕に答えをくれようとはしなかった。
返答に詰まった僕の代わりに疑問の声を上げたのはだった。
「退学って…誰が?」
「決まってんだろ。一人しかいねぇじゃねぇか。」
「…わかんない、誰?」
「…………。」
本当はわかってる。わからないはずがないんだ、この状況で。
それでもはわからないフリをして、宍戸の次の言葉を待っていた。
そしてそれは、僕だって同じ。
「棟田、秋乃だよ。」
***
近くなる足音に気づいていながら、俺は顔を上げずに目を閉じた。
薄暗い待合室はひと気がなく、つまらない。
それでも俺がここにいるのは、ある一つのケジメだ。
「景吾君、お茶でいい?」
「いえ、お気遣いなく。」
「いいのよもう買っちゃったから。本当はコーヒーにしようかと思ったんだけど…好みがわからなくて。」
「いえ、お茶で結構です。ありがとうございます。」
「そう?それじゃあはいどうぞ。」
手渡された汗の掻いたお茶の缶を開けずに手の中で転がす。
顔色がずいぶんと悪い女性を見上げ、虚ろな瞳がこの扉の向こうにいるアイツと重なった。
「こちらの手配は全て整ったので、後は全て貴女達に任せます。」
「………、」
俺の言葉に一瞬にして表情を曇らせる目の前の女性。
何か言いたそうに、でも言葉が見つからないのか、口を開けては閉めてを繰り返していた。
そんな彼女を見て、俺は何も言わずに立ち上がった。
「貴方達には何と言っていいのか…」
「余計な真似だったかもしれませんが、今の俺達にはこの方法しか思い浮かびませんでした。」
「…余計な真似なんかじゃないわ。」
「そう言ってもらえると助かります。」
「むしろ、感謝すべきなのよ。ありがとう。」
そう言って苦しそうに目を伏せる。
今にも崩れてしまいそうなこの女性に、アイツの今後を任せることに少し不安は残るが、ここは俺達の出る幕ではない。
やはり、これだけ衰弱していても母親である以上はこの女性に任せるしか他ないだろう。
頼りなさげな女性、棟田秋乃の母親にA4サイズの茶封筒を手渡した。
「これは今回必要な書類と参考資料の一式です。少々量はかさ張りますが一度全てに目を通した方がいいと思います。」
「…わかったわ、わざわざありがとう。…ふふ、本当に…しっかりした中学生だこと。」
「いえ、今回の件は全て父の力です。それに、後は全て棟田自身にかかっています。俺達の力ではありません。」
「ええ、資金面は問題ないの大丈夫よ。それに、親であろうと何であろうと…これは貴方達の協力を得ないと実現しなかったことよ。」
「…それでしたら俺ではなく、もう一人の奴のおかげと言っていいかもしれませんね。」
「もう一人?」
首を傾げる彼女にフッと笑みを向ける。
「忍足侑士。 忍足院長の息子ですよ。」
――― それは、突然の奴からの申し出だった。
『何だ、話ってのは。アーン。』
『跡部、』
放課後の教室。
この俺様を呼び出すとはいい身分だななんて思いながらも足を運ぶと、
珍しく神妙な面持ちをした忍足がそこにいた。
『協力してほしいことがあるんやけど、ええか?』
『内容を言え。じゃないと許可できるわけねぇだろうが。』
『……それもそやな。』
鼻で笑って近くの机に軽く腰掛ける。
忍足と向かいって俺様が腕を組むと、アイツはテニスバックからいくつかの書類を取り出し渡してきた。
『うちの親父に掛け合っていろいろと探してもらったんや。』
『…これは、』
『でも俺んとこの力だけやったらたぶんまだ足りんねん。“跡部”の力が必要なんや。』
机の上にいくつも並べられた資料に、一通り目を通す。
内容を把握すれば、これが誰のために何のために用意されたものなのかは一目瞭然だった。
だから俺は何も言わず、丁寧に一つ一つ綴られた文字に目を通した。
『跡部の立場も重々承知のうえや。そやけどな、今この問題を解決するのに俺だけじゃ…力不足やねん。』
悔しいけどな、そう言って忍足は笑った。
忍足の言う“跡部”は俺ではない。
それはわかっている。
だからこそすぐに返事を返してやれない。
『アイツの容態考えても時間はないねん。返事はできるだけ早く欲しい。』
『…これは少し難しいかもな。』
『わかってる。でもそれやったらこう言えばええ。』
英字が綴られた書類の束を一冊手に取り、隣に並んだ忍足が俺の胸へと押し当てた。
奴の口元に少しだけ含んだ笑みが張り付く。
『棟田財閥が相手、それだけ言うたら十分やろ。』
耳元に囁かれるようにして聞こえてきた言葉に「なるほど」と一人納得する。
…こいつは、本当に氷帝一の曲者だな。
『ハッ、だったら掛け合ってみる価値はありそうだな。』
『すまんな。親父さんにヨロシク言うといて。』
『バカ言え。ヨロシクなんざしてもらわなくて結構だ。』
『まあそう言いなや。ほな頼むわ。俺はこれから棟田の両親に掛け合ってみるし。』
『…わかった。』
そうと決まればちょうど日本での会議で一時帰国していた父に連絡を取ってみる。
簡潔に要件だけを電話越しに述べると、その日に一度家に戻ってくるということだった。
忍足の思惑通り、“棟田”の名前を出せば随分とあっさりとした返事をもらえたことに少しだけ安堵。
それにしても、父の声を聞いたのなんていったい何ヶ月ぶりだろうか。
思い出せないくらい前だったような気がする。
『ふん、まあいいだろう。』
『…ありがとうございます。』
『棟田にはこちらから連絡を入れておく。跡部は名前だけ出しておけばいいのだろう?』
『はい、後の事は全て棟田と忍足がどうにかするので心配はいりません。』
『そうか。しかしこういったことは今回だけだからな。二度と面倒な事に私を巻き込むな。』
『…わかっています。』
手渡した資料から目を離さず『用が済んだのなら私は帰るぞ。』と言って父は部屋を出て行った。
帰ると言ってもここが貴方の家だろう。 そう思ったって声に出して言うことはできない。
わかっているから。 ここはあの人にとって家ではない。
あの人にとっての家はイギリスにあるのだから。
ここに立ち寄るのは、親としての最低限の義務を果たすため。
それがなければ立ち寄る事すらしないのだろう。
あの人の許可が出た以上、忍足の提案はこのまま行くと成功するはずだ。
何の心配もない。 何と言っても“跡部”の名前で掛け合ってもらえるのだから。
『……貴方は立派な人ですよ。ただし、父親としては最低ですがね。』
誰もいなくなった生活感のまったくない父の部屋で俺は一人、ソファに腰掛け天井を仰いだ。
***
「やっと見つけた。」
声がかかって振り返ると、微笑んで手を上げるジローがおった。
「隣いい?」
「ええけど、滝の見舞いに来たんちゃうの?」
「うん、でも抜け出して来た。」
「そうか。」
ギシッ、古びた木製のベンチが音を立てて、ジローは俺の隣に腰をおろした。
空一面に広がる夕日がジローの綺麗な金色の髪を照らす。
「忍足も後で寄ってあげなよ。滝の病室。」
「おう、そのつもりやで。ただちょっと…みんなで行くんは気が引けたんや。」
「えー何でー?」
「何でもや。」
ジローはベンチの上に足を上げて体育座りで屋上からの夕空を眺める。
その目はいつも通りおどけた様に笑っているのに、少し怒気を含んでいるような気もした。
いや、たぶん気だけじゃない。 コイツは怒っとる。 しかも俺に対して。
「ねえ忍足。」
「なんや?」
「棟田秋乃が退学したの何で?」
「……直球やな。」
「だっていい加減、俺だって知りたいもん。」
黙ってんなよ。そう続けてジローは俺の方を向いた。
コイツが怒っとる原因はやっぱりこれか。
てゆうか、これしかないやんな。
ジロー達に黙っとったんは悪いとは思ってるけど、仕方ないやろ。
今回の件は親父達も絡んでるから、あんまり公にはできんことやったんや。
「はあ…でもそやな、もう話してもええかもしらんな。」
「うん話してよ。大丈夫、黙っててって言うのなら誰にも言わないから。」
「ん、そうしてくれ。」
ジーっと音を立ててでかいテニスバックからいくつか資料を取り出してジローに手渡す。
ジローはベンチから足を下ろし、膝の上にその資料を乗せて目を通し始めた。
でも大半が英字で書かれてるからたぶん読まれへんのとちゃうかな…。
ほら、さっきより瞬きの回数めっちゃ増えたで。 完璧読めてへんな。
「………これ、何の資料?」
「アメリカの病院の資料。」
「あめりか?」
「そ、アメリカや。日本ちゃうで。」
「……まさか忍足、」
「うん、それがそのまさかやねん。」
ジローが驚きの表情を浮かべて俺の顔を覗き見た。
柔らかな風が俺とジローの頬を撫でる。
「移植手術って言えばわかるやろ。」
心臓の。そう続ければジローは何とも言えない複雑そうな表情を浮かべる。
俺の言葉に「誰の?」といった野暮な質問は返ってけぇへん。
代わりに、ジローはもう一度手元の資料に視線を落とし小さく呟いた。
「…本人は何て?」
「さあな。」
「え?」
「生きたいか、生きたくないかでしか聞いてへん。アイツは生きたい言うたらしいけどな。」
「そんなので大丈夫なの?」
「もちろん無理やで。でも手続きなんかは全部本人の意思関係なくもう終わってるんや。」
「え、本人の意思なしで手続きできたの?」
「まあ、本来はアカンけど…何とかなったわ。」
「………そっか。そう…なんだ。」
本人の許可なく行う手続は正直言って結構難しかった。
結構ちゃうな、かなりや。
でも親と跡部と俺の親父の協力があって、それは実現できた。
結局最後まで本人に何も言わないまま、移植手術の準備は全て整った。
「明日、日本を発つらしいわ。」
「…成功するといいね。」
「そやな。」
たぶん本人に事情を告げるのはアメリカに着いてからなんやろうな。
そこでアイツが嫌やて言うたのなら、今回の件はそれでお終いや。 俺達の努力は水の泡。
そやけどきっと、
「アイツが生きたい願っとる限り、大丈夫なんやろうな。」
奇跡は、必ず起きる。
それは俺の力で、じゃない。
アイツ自身の力で奇跡は起こるんや。
2009.08.02 執筆