君が教えてくれたモノ
人の温もりを知らなかったから、寂しいって気持ちも知らなかった。
本当は寂しかったくせに、ずっと気づけなかったんだ。
『ねぇお母さん。』
『なーに、秋君。』
いつだって、誰だって、俺には優しかった。
壊れ物を扱うように、そっと触れる。
貼り付けたような笑みを浮かべて俺の名前を呼ぶんだ。
なんだかそれが、子どもながらにすごく怖かった。
『どうして俺は外で遊んじゃイケナイの?』
『………。』
いつだったか。
そんな大人たちに、小さいものではあったが、確かに疑問を抱き始めたのは。
『ほら、危ないでしょ。 お外は危険がいっぱいだからね。』
『でもハギは…』
『萩君は萩君。 秋乃は秋乃でしょ。』
笑って、俺を突き放す。
必死に伸ばした小さな手が大人の手に足りるはずがなく、俺の無力な抵抗は簡単に空を切る。
虚しさばかりが、俺を支配する。
『秋乃、ビョーキなんだからテニスなんてしちゃダメじゃん。 死んじゃうよ。』
ハギが言った。
その一言が、胸に突き刺さる。
苦しくて、苦しくて。
だけどハギと一緒に遊びたくて、毎日こっそりテニスの練習をした。
何でこんなにも苦しいんだっていつも思っていた。
腹立たしくて、遣る瀬無くて、そんな弱っちぃ自分が大嫌いで。
でも、ハギのおかげで、やっと納得する事ができたんだ。
ああ、俺、病気なんだって。
もうすぐ死ぬんだって。
みんなと同じように、生きることができないんだって。
『笑うな!笑うなよ!! どうせ俺は死ぬんだろ!?』
『秋乃!』
『その顔がムカつくんだよ!! こっち見んな!!』
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
まだ、生きたい。
死にたくなんて、ない。
「今回も、命拾いしたみたいだな。」
真っ白な部屋へ入ってくる。
かつて、俺と同じ目をしていた男。
「…おかげサマで。」
「病院抜け出したりするなよ。」
「さあ、どうしようかな。」
笑って寝転がる。
硬いベッドが嫌な音を立てて沈んだ。
病院のベッドは狭いし寝心地が最高に悪いから俺は大嫌いだ。
「次に発作が起こったらお前、死ぬぜ。」
見下ろされる、綺麗に整った顔。
その表情に怒りも蔑みも憐れみも何もない。
「知ってる。 自分の身体だし。」
知ってるさ。
もう長くない。
発作が起こるとその時間が長くなっている事だって、気づいている。
苦しい、苦しくて、息が止まりそう。
いっその事、今止まってしまえば楽なのに。
「生きたいか?」
窓の外を眺めながら呟く。
跡部からの意外な質問に、俺は黙って天井を見つめた。
「ああ、生きてぇな。」
当たり前だろ。
俺は初めから、死にたくなんてない。 死にたくなんてなかったんだ。
だけど、死ぬ運命だった。
「……そうか。」
生きたくて、生きていたくて。
いつか必ず訪れる死を、待つ事なんてできなくて。
死ぬ事を知っていながら生きる残り僅かな人生。
なんてつまらない人生だろう。
だったら誰かに突然殺された方が、まだマシだと思った。
だけど、死んでしまえばきっと、
僅かな時間しか生きなかった俺のことなんてみんな忘れてしまうんだろう。
そう考えると、死ぬのが嫌で。
矛盾した想いがぐるぐるぐるぐる果てしなく頭の中を回り続ける。
何で俺だけがこんな想いをしてんだって、心の底から自分が憎いと思った。
「だったらテメェの意志で生きてみな。」
含みある笑み。
その冷めたいブルーの瞳も、
いつの間に、それほどまでに綺麗な色へと変化したのか。
『どんなに足掻いても、報われることなんてないんだよ。
人生の最終地点はもう、決まってるんだから。』
一体、あの時の跡部景吾はどこへ行ったんだ。
同じだと思ったのに。
やっと同じニンゲンに出逢えたと思ったのに。
なのに跡部景吾は、一番遠くかけ離れた場所へと先に行ってしまった。
「上等だコラ。」
俺だけがまだ、あの日と同じ場所でみんなの背中を見つめている。
手を伸ばしながら、それでも、足は動かない。
動かそうと、してこなかったから。 動かないんだと、ずっと諦めていた。
たとえ動かしたとしても、動ける範囲内はたかが知れている。
その範囲内を知ることが怖くて、動かなかった。
なあ。
本当は誰でもいいんだ。
誰でもいいから、俺のことをずっと、忘れないでいてほしいだけなんだ。
絶対に、忘れないと誓ってくれるなら、どんな感情だっていい。
アイシテルでも
憎しみでも
同情心でも
なんだっていいから、俺の生きていた証を、その胸に刻み込んでさえくれれば。
俺の存在証明になってくれさえすれば、それでいいんだ。
「死にたくっ……ねぇよっ!」
誰もいなくなった病室で呟いた言葉が、俺の胸の中で溜まっていた全ての物を弾け飛ばした。
***
病室のドアをノックすると、すぐに入るように促されて俺達はの病室へと足を踏み入れた。
中には何故か立海の仁王や切原もいて、数々のお見舞いの品を食い荒らしていた。
……何しに来てんだコイツら。
「忍足と、跡部は?」
に凭れ掛かるようにベッドに座っていたジローが俺の目を見て訊く。
何で俺なんだよって思ったけど、たぶん一番先頭に立ってたからだろうって事にすぐ気づいた。
「アイツらはいろいろやる事があるらしいからな、別行動だ。」
「いろいろって?」
「そこんところはまだよく聞かされてねぇけど…、」
「棟田はどうなったんじゃ?」
「あ?」
ジローとの会話に口を挟んできた仁王に視線を向ける。
思わず話を折られて眉間に皺が寄っちまったけど、俺は一拍置いてもう一度口を開いて質問に答えてやった。
「今回も、奇跡的に一命を取り留めたらしいぜ。」
俺の一言に、そこにいた仁王も切原ももジローもみんな安堵の表情を浮かべる。
ここに来る途中、簡単にだけど俺達は滝から事情を教えてもらった。
走りながらだったから聞き逃した部分もあったけど、大体の把握は出来たと思う。
長太郎なんか、走りながら泣きそうな顔してたしな。
「その様子じゃ、聞いたみたいだね。 秋乃のこと。」
「さっき俺が話した。」
「…そっか。 君が…、」
滝が仁王を見て、笑みを浮かべる。
仁王はただじっと、そんな滝を見つめていた。
「秋乃、死ぬの?」
ふと、が口にした疑問に、病室の空気はあっという間に重いモノへと変わる。
の方へと視線を向けると、は少しだけ険しい顔つきで俯いていた。
そんなに優しく、滝が言う。
「死ぬよ。 秋乃は、そういう運命だから。」
だけじゃない。
ここにいた全員の目が、見開く。
滝が発した言葉は事情を聞いた今、正論で、だけどあまりにも残酷なものだったから。
理解するのに、少しだけ時間がかかった。
「奇跡が起きないかぎり、秋乃は死ぬよ。」
「……奇跡なんて、」
「起きるわけ、ないのにね。」
そう言って自嘲気味に笑う、滝。
自分が言ったことなのに、まるで、ここにはいない誰かに呟くような口ぶりだった。
「大丈夫。 秋乃だって覚悟はできてるよ。 自分が犯してきた罪を、償わなくちゃ。」
「………」
「そんな顔しないでよ。 だって秋乃から解放されるの、嫌じゃないでしょ?」
「…そうだけど、」
「だったらもうは秋乃のこと、考えなくていいよ。」
優しく微笑む滝の横顔を見て、俺は何か言おうとした口を再び閉ざして息を呑んだ。
「そうやってが苦しむ度に、僕が罪悪感に苛まれるから。」
もう、やめて。
そんな滝の心の声が、聞こえてきた気がした。
「秋乃がに執拗に手を出すのは、僕が原因なんだよ。」
『悪いけど、僕は君を受け入れることはできないよ、秋乃。』
知ってた?と微笑む滝の顔が一瞬だけ、歪んだ。
の目は大きく見開かれ、驚きのあまり「え。」と声を漏らす。
聞いていた俺達も、同じように驚きの表情を顔に貼り付けた。
「…どういうことだよ、滝。 なんで、」
「僕がと出逢ってしまったから。」
「意味、わかんねぇよ…。」
向日が泣き出しそうな顔つきで滝の前に立ちはだかった。
滝はそんな向日の頭をそっと撫で、の前まで歩み寄る。
『君が僕を頼りにしているのはわかってる。 でも、僕じゃダメだ。』
『………なに、お前。』
『僕は君を受け入れることはできない。 ごめんね、秋乃。』
「は覚えているかわかんないけど、小学生の頃、僕は君と出逢ったおかげで秋乃から離れることができたんだ。」
「…滝と、私が?」
「うん。 でもね、秋乃はそんな僕が気に入らなくて…でも、そんな僕を変えたがもっと、気に食わなかったんだ。」
「………、」
「同時に、羨ましかったんだと思う。 の存在が。」
『だけど、僕は君のことを拒絶したりはしない。 受け入れることはできないけど、』
『……ハギ、』
『フォローはするよ。 きっと、僕じゃない、誰かが見つかる日が来るから。』
―― たとえそれが、僕の大切な人だとしても。
「秋乃は、僕の大切な人が欲しかったんだ。」
ガチャンっ
滝が言い終わったと同時に突然何かが割れる音がする。
大きな物音と共に開かれる病室のドア。
俺達はみな、驚いて後ろのドアを振り返った。
ドアの付近には割れたガラスの破片が一面に広がっていて、赤い斑点が鮮明に滴っていた。
全てがスローモーションのように、動いている。
何が起こっているのかなんて、俺の頭では瞬時に判断できない。
ただ、をベッドから引きずり降ろそうとするアイツと、それを止めようと手を伸ばす仁王や切原、滝の姿。
「滝!!」
俺がそう叫んだのとほぼ変わらない速さで世界が反転する。
仁王や切原の手を振り払ってに向かってガラスの破片を振りかざす棟田秋乃の自身の血で真っ赤な手。
完全に腰を抜かしてしまったを庇おうと滝がの前に立ちはだかり
あたり一面に真っ赤な血が飛び散った。
「ぃ、いやぁぁあああああああああぁぁああああああああああああああああああ!!!」
視界を覆う赤。
耳を刺すような叫び声。
目の前で、一人の少女を庇った一人の男が、その場に崩れ落ちた。
『はは、唯一のお友達もいなくなっちゃったね。』
『を今度の合宿に連れて行かない?』
『ちょっと、色気の全く無いパンツが見えてるよ。 女の子なんだから足閉じて。』
『マネージャー続けるの? 続けるでしょ?』
『はやってないって言ったじゃないか。 それなのに叩くってどういうこと?』
『それって、跡部のこと好きなんじゃない?』
『僕の勘、当たるんだ。』
『僕は君を敵に回してでも彼女を護るよ。』
『それでも君は覚えていないんだろうね。』
『でもそのジュース。 何だか懐かしい感じがする。』
『じゃあ僕も萩って呼んでもらおうかな。』
『だったら、死になよ。』
『今日までよく頑張ったね、。 僕達がいるから、もう、大丈夫だからね。』
なあ、なんでだよ……。
『。』
(何で、そんなにも……っ、)
「、逃げッ……っ!」
滝は刺された胸元を押さえながら手探りでを捜す。
発作が限界なのか、同じく胸を押さえながら顔を歪める棟田秋乃がその場に崩れ落ちる。
は引き摺り下ろされたベッドの下で放心状態のまま胸から血を流す滝を絶望的な表情で見下ろした。
はっと我に返った俺達は慌てて滝に駆け寄る。
長太郎と日吉は医者を呼びに病室を飛び出し、ジローと俺は滝の止血をと、適当な布を辺りを見回して探した。
仁王と切原がそっと、険しい表情を浮かべて棟田秋乃へと近寄り、声をかける。
「棟田…お前、」
「っ、…はあ、」
「何、してんスか…アンタ…」
「……はあ、まだ…っ」
よろよろと立ち上がる。
急に俺の手元の視界が暗くなって、
「っ、!」
滝が叫んだのと同時に、へと手を伸ばした棟田秋乃が仁王に後ろから羽交い絞めにされる。
「ッはっ、放せぇぇええええええええええぇぇえええええええええええ!!!!!」
叫び声を上げて暴れだした棟田を必死に仁王が押さえ込む。
ばたばたと騒がしくなった廊下から長太郎と日吉に呼ばれた医者が駆け足でやってきた。
あまりにも凄まじい病室の様子に、医者は一度立ち止まって絶句した。
「嫌だ、もう嫌だ!!嫌なんだよ!!」
「秋乃、」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!」
そう叫んでひたすらに向かって手を伸ばす。
まるで殺してやる、と言っているその目がを捕らえて放さない。
仁王一人じゃ抑えきれないほど強い力なのか、少しずつ前進していることに気づいた切原も前から棟田秋乃を押さえつけ始めた。
は、ただそんな光景を光も何もない瞳でぼんやりと眺めていた。
「何で、っ」
滝の止血をしていた俺の手が、止まる。
「何で俺だったんだよ!!何で俺が死ぬ運命だったんだぁああああ!!!」
なあ、なんでだよ。
何でそんなにも…
何でそんなにもお前らは、
歪んだ感情を持ってしか自分を保てないんだよ。
バチンッ
「!」
音が、消える。
胸が痛くて、苦しくて。
ああ、ほっとけねぇなコイツらって、心底思った。
本当はずっと関わりたくなんて、なかったのに。
「もう止めとけ。」
アイツの涙か、
それとも俺の涙か、
わかんねぇけど視界が歪んで見えなかった。
ただ、アイツの頬を打った手のひらがじんじんと熱くて、痛かった。
「…違うだろ、こんなの。」
「宍戸、」
「こんなことしたって何も変わらねぇっていい加減わかれよ!!」
「ちょっ宍戸サン!」
勢い余ってアイツの胸倉掴んで揺さぶる。
慌てて切原が俺の腕を掴むけど、俺は揺さぶるのをやめなかった。
いや、やめれなかった、って言った方が正しいのかもしれない。
アイツは虚ろな瞳で無造作に涙を流しながら俺をじっと見つめていた。
「なあ、気づいてんだろ本当は!こんなことしたって無意味だってこと、わかってやってんだろお前は!!」
「…………、」
「一人が寂しいんだろ!?寂しいくせに何で一人になろうとすんだよ!なあ棟田!!」
俺が叫ぶ後ろで医者が滝を連れて部屋を出て行く。
それに連れ添う長太郎と日吉が続いて部屋を出て、ジローが放心状態のを抱き起こした。
「………知ってっか?コイツらお前のこと、一番想ってんだぜ。……俺達より、誰よりも…」
「そんな奴らを自分で殺してお前一体どうしたいんだよ!!」
さっき滝から聞いた。
棟田にはずっと面倒看てくれていた幼馴染の女の子がいたこと。
その子の事すらも、自らの言動で殺したこと。
棟田はいつか死んでしまう自分を心のどこかに残していてほしいって
そういった想いからや滝やその子に辛く当たってきたこと。
なのに、何で、どうして自らソイツらを失う方向へしか持っていけないのか。
そうすることでしか自分を表現できないほど、棟田は孤独の中に埋もれていたのだろうか。
だとしたら、なんて悲しい人間なんだろう。
「こんなところにいやがったのか、棟田君よ。」
棟田の肩がビクリと跳ね上がる。
俺も声がした方へと振り向くと、「ずいぶんと捜したぜ。」と言いながら
開いたままだったドアに凭れ掛かり、不敵な笑みを浮かべている跡部がそこにいた。
「本当どうしようもない奴だな、お前は。」
無惨にも散らかった病室を一度だけ見渡し、跡部が部屋の中心部へと入ってくる。
それだけで、今までの病室の空気が一変したように思えた。
「さぁて、きっちり罪償いしてもらおうじゃねぇのよアーン。」
跡部がニヤリと笑う。
それと同時に、病院の外がやけに騒がしくなったように感じた。
なあ、滝。
この悲劇の結末。
一体どうすればハッピーエンドになるんだろうな。
俺には本当、わかりっこねぇよ。
2009.07.07 執筆