君が教えてくれたモノ
「忍足、」
振り返る。
僕はギュッと携帯を握り締め、笑った。
「合宿の時に交わした約束、ちゃんと覚えてる?」
『あのね、もし僕が ――――――――――――』
もし僕が、
もしも僕が、
「ああ、任せとき。」
もしも僕が彼女ではなく、アイツに手を貸そうとしたのなら
「俺は約束は守る男やで、ハギ君?」
――― みんなもアイツに手を貸してあげてくれるかい? ――――
***
『景吾坊ちゃん、夕食のお時間ですよ。』
『ああ、わかってる。』
『テレビを見ていらっしゃるのですか?』
普段テレビなどあまり見ない俺が珍しくじっとテレビを見つめていたからか、
不思議そうに俺の視線の先を追う爺が、その先にある物を見て表情を曇らせる。
そんな爺の表情の変化を見上げていた俺は、一度だけ目蓋を伏せ、そしていつもの笑みを貼り付けた。
別に、一つの料理を家族全員で囲んで食べている光景なんて、今更何とも思わねぇのに。
楽しそうだなと思うくらいで、羨ましいとも思わない。
何故俺はこれをしたことがないのかと、疑問すら湧いてこない。
それこそ本当にイマサラだ。
『今晩の夕食は何だ、爺。』
『今日は景吾坊ちゃんが食べてみたいと仰っていた鍋、でございますよ。』
まだ年長に上がる前、四ヶ月ほど日本の幼稚舎に通っていた時、
たまに一緒にテニスをしていた萩がどういう話の流れかは忘れたが、鍋の話をしてくれた。
その話を聞いて、確かに、食べてみたいと言った。
あくまで興味本位で、だが。
だが、実際食べてみた鍋は、特に美味いとも楽しいとも温かいとも感じなかった。
無駄に広い部屋の真ん中で、使用人達に囲まれながらたった一人で食べた鍋は、
話で聞いていたのとは全く違う、ただの孤独感しか俺には与えなかった。
『おい跡部! 見てないでちゃんと野菜入れろよ!』
『ああ? 俺様に指図する気かよ。』
『あかんあかん、岳人。 跡部が鍋奉行なんかするわけないやんか。』
『ねぇお肉まだ〜?』
『ジロー食ってばっかじゃなくてお前も手伝えっての!』
『だってさっき肉入れたら岳人に怒られたんだもん。 俺知らねー。』
『それはお前が次々に肉ばっか入れるからだろ! ちゃんと野菜とうどんも食えよ!』
『あー向日、ちょっとガスボンベねぇ? 火消えそう。』
『マジ? たぶんキッチンにあると思うから宍戸、取ってきて。』
『あいよ。』
違う。違う。違う。
何が違うと言うのだろう。
あの時食べた鍋は、この時食べた鍋と同じ物だったはずなのに。
『にしても、材料全部跡部ん家から調達したやつやから何や、味が高級やなあ。』
『滅多に食えねぇだろ。 今のうちに味わっとけよ。』
『いちいちイラっとするぜお前のその言葉。 ハッ、鍋に高級感なんか求めるもんじゃねぇんだよバーカ。』
『イラッとすんのはお前のその無駄に長い髪の毛だろ。 男のくせに、さっさと切れ。』
『ああ!? テメェちょっと金持ちだからって調子乗ってんじゃねぇぞ!!』
『ちょっとじゃなくてかなり金持ちなんだよ。 庶民は黙って白菜でも食ってな。』
『マジお前うぜぇ!! おもて出ろ!!』
『一人で出ればいいだろ。 俺様は寒いから家にいてやるよ。』
ああ、そうか。
『ねえねえ跡部ーそこのオタマ取ってー汁入れてー。』
『アーン、自分で入れろ。』
『こらこら跡部、汁くらい入れたれ。 ほらジロー器貸し。』
『ぶうぶう跡部のケチんぼ〜。 ほい、オッシー並々ね。』
『こんくらいか?』
『イエス、そんくらいだ。』
『あ、侑士俺のも入れてくれよ! 肉もな!』
『はいはい器貸し。』
『サーンキュっ…って野菜ばっかじゃん肉って言っただろ肉!!!』
『その野菜食べな入れたらんで。 さっきから見てたら岳人肉ばっかで野菜全然食べてなかったやろ。』
『お前は俺の母さんかよ!!』
『オカン呼んでくれてええで〜。 宍戸はいるか?』
『ん、頼む。』
一人で食べたって美味いはずがないんだ。
賑やかを通り越して煩いコイツらと食べた鍋だから、
あの時一人で初めて食べた鍋より美味しく感じたのは当たり前のことで。
当たり前のことが、俺はずっと気づけなかった。
だから、
だから俺は、
ずっと自分が“寂しかった”んだって知らなかったんだ。
『最近いいお顔になってきましたね、景吾坊ちゃん。』
『アーン、爺は冗談が好きなのか? 俺様はいつだっていい顔だったじゃねぇか。』
『ハッハッハ、全くその通りでございますな。』
知ってるぜ。
知ってるさ。
爺が何の話をしているのかも。
何をずっと、心配していたのかも。
『日本の学校は、楽しいですか?』
その質問をすることで、何を望んでいるのかも。
『ああ、大満足、まではいかねぇが……不満なんてものはこれっぽっちもない。』
俺は、いろんな人に支えれられて生きていることを、忘れはしない。
いろんな人に心配されて、思われて、決して一人ではないことを、忘れてはいけない。
一人だと思うのは、いつだって俺の勝手だから。
俺はただ、“寂しさ”を“一人”だと勘違いしていただけ。
『アイツらとテニスをするのは、嫌いじゃない。』
***
『お母さん、今日ねっ』
ランドセルを背負ったままリビングにいる母親の元へと駆け寄る。
母親が『なに?』と言って振り返ったその目を見て、私の顔から笑顔が消えた。
『お母さん忙しいの、早く手を洗って手伝ってちょうだい。』
『……また、出かけるの?』
『嫌な言い方しないで。 働きに行くのよ私は。 明日の朝には帰ってくるから良い子で寝てなさいよ。』
頭を撫で、私の横を通り過ぎていく母親の姿。
これで何度目だろう。
今日学校であった話を聞いてもらえなかったのは。
『ああそうそう。 お父さん帰ってきたらそこにあるご飯チンして食べてって言っておいてね。』
『うんわかった。 のご飯もこれ?』
『そうよ、お父さん待ってたら遅くなるから先に食べてなさい。』
『……一人で食べるの?』
『可笑しな子ね。 他に誰と食べるのよ。』
『……お母さんは?』
『お母さんはもう食べたわ。 じゃあそこの洗濯物畳んでおいてね、いってきます。』
『……いってらっしゃあい。』
少し冷たくなったご飯を無理矢理喉に通す毎日。
静かな空間が嫌で、テレビをつける。
ブラウン管の向こうでお笑い芸人の楽しそうに笑う声が小さなアパートの部屋に響き渡った。
『…百円拾ったのにな、今日。』
何に使おう。
帰り道にある小さな公園の入り口で拾った百円玉。
嬉しくて、誰にもバレないように拾った瞬間走って帰ってきた。
お母さんに言って『あらよかったわね』と言ってほしくて、言ってほしかっただけなのに。
また、言えずにお母さんは仕事へと行ってしまった。
『 』
光るブラウン管を見つめながら、いつもの言葉を自分に言い聞かせ、小さく笑った。
そう、いつものこと、だから。
もう慣れっこだから。
家族と食べるご飯の温かさを知らなかったから。
私はきっとここまでやってこれたんだって今になって思うんだ。
***
「……そっか、わかった。」
携帯を閉じると、病室にいる三人の視線が俺へと注がれていることに気が付く。
俺は携帯をポケットにしまってちゃんへと視線を向けた。
「棟田秋乃、こっち向かってるって。」
「どういうこと?」
「発作で倒れたらしい。」
滝からの電話だった。
試合中に倒れた棟田秋乃を乗せた救急車が俺達がいるこの病院へと向かっていること。
そして、跡部が救急車に付き添って乗っているらしい。
部活は日吉と樺地に任せて後のみんなもこっちへと向かっているという話だった。
俺の報告に、ちゃんは何も言わずに俯いた。
きっと、内心すごく複雑な気持ちなんだろうな。
「芥川、」
「なに?」
「忍足は…どっちの道を選択したんじゃ?」
「…どっちって、」
「知ってたんじゃろ、こうなること。 アイツはわかってて…挑発した。」
そう言われれば、そういうことになるんだろう。
だからと言っても、俺は何も知らない。
忍足が何を知っていたのかも知らなかったのに、その先に待ち受けていた事態の結末を知るはずがない。
一体どの結果に辿り着くのか、想像もつかない。
それをわかっていて、あえて仁王は訊いてきたのか。
いや、訊かなければ、いられなかったのか。
「さっきも言ったけど、俺は何も聞かされてないんだって。」
「…そうか。」
「まあ、あえて言えることと言ったら…」
俺は腰掛けていた椅子から立ち上がって窓へと歩み寄る。
カーテンをギュッと握って夕日に染まった窓の外を見上げた。
「俺達は死んでほしいと思うまでアイツのこと、嫌いじゃないってことくらいかな。」
腹が立つ。 好きじゃない。
これは本当、お世辞でも嘘なんか言えない。
だけど、
「放っておけないんだよ、みんな。 似てるから…」
『お前、練習出る気ねぇならさっさと辞めちまえ。』
あん時の跡部の眼に、そっくりだから。
「きっと、可哀想な奴だって、どこか憐れんだ感情を持ってるんだと思うよ。 仁王、キミと同じように。」
「………、」
気に食わない奴がいたら、排除するんじゃない。
助けてやりたくなるのが、普通でしょ。
人の温かさを知ってほしいって思うから、手を差し伸べたくなる。
寂しいくせに、寂しいって感情を知らないから寂しいって言えない人。
きっと世の中にはいっぱい居ると思う。
それってすごく、悲しい事。
「大丈夫、忍足だってまだ中学生だよ。 悪いようにはしないよ。」
俺が笑って振り返れば、仁王と目が合った。
仁王は小さく「ならよか。」と呟いて自分が買ってきたお見舞いの品をちゃんの手から奪って漁り始めた。
そしてそこから小さな洋菓子のパンケーキのようなモノを手にとって包装を破る。
その一連の動作を見て、思わずちゃんが目を丸くした。
「ちょっ、私への見舞いの品だったんじゃ……」
「誰もお前だけのモン言うとらん。 腹減ったんよ。」
「はあ!?」
「じゃあ俺ももーらお、」
「赤也、お前は食うな。」
「何でッスか!」
「金出しとらんじゃろ。」
「ってそれは昨日のバーガーで金なくなったからっ……!!」
ちゃんは呆気に取られて口を開けたまま仁王と切原のやりとりを眺めていた。
面白い顔だな〜なんて思いながら小さく笑って再び窓の外へと目を向ける。
きっと、もうすぐ着くはずだ。
救急車に乗せられたアイツが、搬送されてくるはず。
何が起こるのかは俺だって皆目検討もつかないけれど、
だけど、信じてるから。
大丈夫、きっと、大丈夫なはずだから。
『………ワケ、わかんねぇんだよ。』
だからさ、いくら好きじゃない奴だとしても、
寂しい思いを抱えたまま死んじゃうのは、俺ヤダよ。
人生が楽しいって思うことなく死んじゃうなんて、あまりにも可哀想で、悲しくて。
『……なに、泣いてんだ。 コロコロ表情変えやがって、変な奴。』
少しでもいい。
少しでもいいから楽しいって言って笑ってほしいんだよ。
お願いだから。
お願いだからこれ以上、死んだような目を、しないで。
『ジロちゃん。』
じゃないと、
『本当はアイツね、すごく寂しがり屋なんだよ。』
キミのために死んでいったあの子が、報われないでしょ?
「大切なのは、心の持ち様、なのにね。」
小さく、呟いた言葉。
同時に、少し離れた場所からサイレンの音が聞こえてくる。
「私、小さい時に自分に言い聞かせていた言葉があるの。」
聞こえてないと思っていただけに、少し驚いて振り返る。
すると、いつの間にかパンケーキを片手に俺を見上げている真剣な表情を浮かべたちゃんと目が合った。
口端についた食べカスを指で掬うと、それを舐め取る。
「親は共働きで、いつも一人でご飯食べてた。 だからかな、美味しいはずのご飯も、何だか味がしなかったんだ。」
「……、」
「だけど一人で食べるのが当たり前だったから、寂しいって言えなくて、仕事で出て行くお母さんに一緒に居てって言えなくて…」
俯く視線。
手に握られたパンケーキを持つ手が、小刻みに震えている気がした。
「『私はヒトリで生きていける強い子なんだ』って魔法の言葉のように言い聞かせてきた。」
そう言って自嘲気味に笑ったちゃんの目の奥が、すごく寂しそうで、何だか俺が泣いてしまいそうになった。
俺の独り言のような一言で、ちゃんが何を感じ取ったのか、それは俺にはわからない。
だけどちゃんの目を見ていると胸の奥がきゅうっとなって、ものすごく苦しかった。
「あの時ヒトリが寂しいって怖いって泣き叫んでいればきっと、今の私はここにいなかった。 とっくに、道踏み外してたと思う。」
小さい頃、ヒトリで生きていける強い子なんだって思うことで、寂しさをコントロールしていた。
それが良いことだったのか、良くないことだったのか、わかんない。
でも、
「私、乗り越えてこれたんだ。」
それも時には大事な事なのかもしれない。
顔を上げ、口端を持ち上げて俺を見上げるちゃんの目は、もう迷ってなどいなかった。
寂しい、悲しい、辛い。
そんな感情は、もうない。
あるのはただ、強い意志。
「お疲れさん。」
そう言って、仁王はちゃんの頭を撫でる。
「アイツも、もっと前向きに思えりゃよかったんスよね。」
「切原、」
「結果的にアイツの心の弱さが……この悲劇を生んだんじゃないスか。」
余命を告げられ、生きることへの絶望を感じた、彼。
少しでも彼が前向きに考える事ができる強い心を持っていれば、それで解決できた問題?
ううん、違うよね。
「難しいよ。 実際に自分が秋乃の立場だったら……どう思うかなんて、わかんないもん。」
そうだ、
だからこそ、だからこそ俺達はみんな、
「アイツ自身を、変えてやんなきゃ。」
真実を知って辿り着く答え。
わかった気がしたよ、忍足。
「…まだ死ぬには早いかな、棟田秋乃君。」
大丈夫、きっと奇跡は起こるはず。
いや、起こしてやるから、絶対に。
2009.02.02 執筆