君が教えてくれたモノ
しとしと落ちる雨が上がれば、
空は綺麗に晴れるかな。
「……そうか。」
静かに、跡部の声が病室内にぽつりと響いた。
ベッドの上ですやすやと規則正しい寝息を立てるを見下ろす。
閉じられた目の端の、僅かな涙の跡が妙に痛々しい。
僕から事のいきさつを全て聞かされた跡部、忍足、ジロー、岳人は、それぞれ思い思いの表情を浮かべる。
ぱっと見は無表情の樺地も、いつもと違い、少しだけ眉間に皺が寄っていた。
「で、丸井らはどないしたんや? おらんやん。」
「柳さんと丸井さんは、丸井さんの手当が済んだ後、跡部さん達によろしくと言って神奈川に帰りました。」
「なるほどな。 丸井は深手を負ったのか?」
「いや、傷は浅かったみてぇだぞ。 利き手じゃなかったにせよテニスプレーヤーにとって
手を負傷するってのは痛手だろうな。 本人は気にすんなっつってたが。」
「…そうか。 まあその件に関しては後で俺様が直々に詫びでも入れに行ってくる。」
急に静まり返った病室に、窓の外を眺めていた跡部が振り返る。
どの面も目を真ん丸くして驚くように跡部の事を見上げていた。
跡部は眉間に皺を深く刻んで少し不機嫌そうにそんな僕らを睨むように見下ろした。
「何だ。 何か言いたいことでもあるのか、忍足。」
「…何で俺が代表やねん。 いやな、跡部がそこまでのことを思ってたんやなーって。」
「ああん?」
「ええやん、こりゃ跡部にとってもええ傾向や。 ほな、の面倒は跡部に任せたで。」
「…そうだね。 それじゃ、僕達はお暇しようか。」
忍足の提案に乗った僕は簡易椅子から立ち上がる。
そんな忍足と僕の意図を知ってか知らずか、
その場に流されるように立ち上がった岳人や宍戸を見て、跡部の表情が一層険しくなった。
「んな怖い顔すんなよ。 別にからかってるワケじゃねぇんだし。」
「どうだかな。」
「とにかく、絶対の傍から離れんなよ跡部。 大変なのはこれからなんだからな。」
「……わかってる。 お前らも、気をつけろよ。」
「ん、任せとけって。 二度も同じ相手にやられるほど馬鹿じゃねぇって。」
「いーや、岳人の場合は油断大敵やで。 気ぃ抜いたらあかん。」
「うっせーわかってるよクソクソ侑士!!」
テニスバッグを肩に担ぎ、帰る仕度を始める。
言い争いながら廊下へと出た岳人と忍足、宍戸、長太郎を見送ると、
「萩、」
の寝顔を名残惜しく眺めていた僕を呼び止めた。
ゆっくりと視線を跡部に向けるのと同時に、その後ろでテニスバッグを担いだばかりのジローと日吉も振り返る。
「なに?」
「…いや、何でもねぇ。」
「はっきり言ってよ。 気持ち悪い。」
きつい言葉とは裏腹に苦笑いを浮かべた僕の表情を見て、跡部は目を伏せる。
ふと脳裏を過ぎるのは合宿中、彼に向けた言葉。
――― もし君が立海の奴らのようにを脅かす存在となるのなら、
僕は君を敵に回してでも彼女を護るよ。
跡部にしか彼女を救えないって事は、わかってた。
だけどそんな跡部が彼女の手を掴もうとしないのなら、僕がやらなきゃいけない事は唯一つ。
そう、僕が彼女を護ってやるだけ。
護って、やるしか方法はなかった。
「こいつのことは、今度は俺が護る。」
ぶつかった視線。
一瞬の沈黙の間、病室にかけられた時計の針の音が数回耳に届く。
じっと見据えて何も言わない跡部を見て、僕はフッと口元を緩めて笑った。
「そう、じゃあ頑張って。 あとは全て跡部、君に任せるよ。」
そう静かに告げると、ジローと日吉の間を通って病室から出て行く。
二人の視線が両側から突き刺さるように注がれる。
だけどそんなこともお構いなしといった風に軽い足取りでその場を抜けた。
ちょっとだけ胸が苦しかったけど、体全体は何だかスッキリしている気がする。
本当はね、彼女に対して罪悪感と言う感情の方が大きかったんだ。
彼女にアイツを差し向けてしまったという、罪悪感。
それは、小さい頃に抱いた淡い恋心よりも大きくて。 苦しくて。
だから、君が彼女を護ってくれるなら、僕はそれでいい。
どう足掻いたって僕は彼女の王子様にはなれやしない。
だってね、僕は護る事はできても、君と違って救う事はできないから。
彼女の死を止めはしても、その心の闇を僕は救ってやれない。
だってさ、僕は初めから彼女をただ見ているだけだったでしょ。
アイツの手に渡ろうとしていた彼女を、何も言わずただ黙って見てた。
そんな僕が王子様だなんて、ほんと笑える。
「、私の名前、だから! 覚えておいて!」
「僕は萩之介。 、だね。 オーケー覚えたよ。」
「萩くん、またいつか会えるといいね! その時、ちゃんと一円返すからね!」
「別にいいって、一円くらい。」
「ダメだよ、ちゃんと返す。 返さなきゃって思うと、また萩くんに会えるかもしれないでしょ?」
だから、
「だったら、約束だよ。 忘れないでね。」
王子様は僕なんかより、君が一番お似合いなんだよ、跡部。
(ああでも、どっちかって言うと…跡部は王子様なんかじゃないよね。)
さしずめ、囚われの彼女を救う、たった一人の選ばれし帝王ってところかな。
「お疲れさん。」
「……ありがと。」
病室を出てすぐのところで待っていた忍足に差し出されたミルクティーの缶を受け取り、
少しだけ汗を掻いた冷たいそれをぎゅっと両手で握り締める。
「何や自分、スッキリした顔してんで。」
「僕の顔はもともとこんなのだよ。」
岳人達は先に帰ったのだろうか、忍足以外そこにはいない。
まあどうでもいいやと、忍足をほっぽってひと気のない薄暗いエレベーターホールのベンチに座り
プルタブを上げてそっと口へ運べば、何だか苦いような、それでいて甘ったるい味が口いっぱいに広がった。
ふう、と溜まっていた溜め息を吐いてずっと張っていた肩を落とせば
緑茶の缶を持った忍足が「それ奢りとちゃうでー、」と冗談めかして言いながら僕の隣に座った。
まあ冗談じゃなくても絶対払わないけど。
もう一口ミルクティーを含むと、さっき忍足が僕に向けた言葉が頭の中で響き渡る。
何に対しての“お疲れ様”だったのかなんて、聞かない。
(………ほんと、つかれた。)
――― こいつのことは、今度は俺が護る。
ほんと、わかりにくい言い方してくれちゃって。
これ、岳人や宍戸だったら絶対気づかないよ、跡部。
(……でも。)
でも、ありがとう。
ありがとう、跡部。
おかげで、少し肩の荷が下りた気がするよ。
ずっと一人で抱え込んでいた、想い。
それは途轍もなく大切なものだったけれど、手放さなければならない時が来たんだよね、きっと。
「行くんか、滝。」
「うん、早めに済ませておきたいんだ。」
「……そうか。 気をつけてな。」
「ありがと、あとこれも。」
当然奢りでしょって意味を込めてミルクティーの缶を顔の前で軽く揺さぶれば
忍足は苦笑いを浮かべて「どういたしまして。」と手を振った。
ちょうど開いたエレベーターに乗ってきた乗客と入れ替わるように中に入ると、
雨のせいで湿っぽくなった空気が体に纏わり付いてきた。
その気持ち悪さに自然と表情が引き攣る。
僕には、行くべきところがある。
彼女の事はもう跡部に全てを任せて来た。
なら、僕の仕事はもう一つ残っているはずだから。
だから僕は、そこへ行く。
「そろそろ試合終了だよ、秋乃。」
エレベーターの戸が閉まると同時に、
誰に言うわけでもなくぽつりと小さく呟いた。
そう、誰に言うわけでもなく。
小さく、ごめんね、も添えて。
***
重い瞼をゆっくりと開く。
何だか目が腫れぼったい。
怠い体は起き上がる気も起こさせず、虚ろな瞳をキョロキョロと動かして辺りを確認すれば突如頭の上から声がかかった。
「起きたのかよ。」
「……跡、部?」
「何だ。 腹でも減ったか。」
覆いかぶさるようにしてギュッと握られた手が温かい。
何だか安心する。
椅子に座って足を組み、私を見下ろす跡部の目はやけに優しかった。
口調も、どこか柔らかい気がする。
私はふるふると首を小さく左右に振り、上目で跡部をじっと見つめる。
これ、まだ夢?
「まだ起き上がるんじゃねぇぞ。 暫く安静にしてろ。」
「何で、大丈夫だよ。」
「安静にしてろ。」
「…………、」
起き上がろうとした私の頭をがしりと跡部が鷲掴みにして枕に頭を静める。
うん、どうやら夢ではないようだ。
相変わらずの扱いだな。
跡部の手が頭から離れると、何だかちょっぴり寂しく感じた。
外は、まだ雨が小降りとなって続いていた。
一体あれから、どれくらい時間が経ったのだろう。
「……また、死ねなかった。」
天井を眺めて小さく絞り出すような声で呟く。
声に出して言うと、実感する。
私、生きてるんだって。
彼らに生かされたんだって。
「今度こそダメだって思ったのに、私にはもう何も無いって、ひとりだって。 ……なのに死ねなかった。 可笑しいね。」
「バーカ、人に限界なんてものはねえ。 限界は自分が決めるものであって、そこが限界じゃないと思えばどこまでもいける。」
「私、そう思えるほど強くないよ。 たったひとりじゃ、何も出来ない。 ひとりだと……何もっ、」
再び目尻を涙が伝う。
視界がぼやけてよく見えない。
今度こそ本当にヒトリだと思った。
一人ぼっちで、もう何も残っていないと。
今まで心のどこかで信じていた唯一血が繋がった母親でさえ、私をモノとしてしか見ていなかった。
やっと手に入れた居場所も、いとも簡単にあっさりと無くなっちゃって。
残された私は、あまりにも脆くて、弱くて、愚かだった。
「だからお前はひとりじゃなかったんだろ。 今お前が生きてるってことは、そういうことだ。」
「……意味、わかんない。」
「ま、お前の鳥頭じゃ理解できないだろうが…お前の決めた限界は間違ってたんだよ。
ひとりだと思い込んでただけで、実際は違った。 アイツらが来て、ひとりじゃないってわかった。
だからお前は死ねなかった。 生きたいって思ったんだろ。」
そうだ。
あの時、ひとりじゃないよって、丸井君が必死に訴えかけてくれてた。
私を思ってくれてる奴らがいるって。
あの時の私は、自分の周りに人は誰もいないって思い込んでた。
でも冷静になってよく考えてみれば、丸井君も、蓮二も、すぐ近くにいたんだね。
あんなにも必死になって、怒鳴ってくれて…。
そんな彼らがすぐ近くにいたのに、私は自分を見失って、本当に周りが全く見えていなかった。
(……それに、)
――― 私はいつでもの味方だからっ!
いたんだよ、ずっと。
私はひとりなんかじゃなかったはずなのに。
彼女が、いたのに。
『お名前ちゃんって言うの? 私は小百合って言うの!』
ああ、私って本当にバカだ。
みんなに突き放された事によって、見失ってはいけないモノを見失ってた。
何も、見えていなかったんだ。
みんな、大切だった人。
みんな、アイツに奪われていった人。
だけど、それは完全ではない。
みんな私が諦めて、見失った人。
まだ目の前にいたのに。
まだ私に向かって手を伸ばしてくれていたのに。
奪われた事で、塞ぎ込んで、捜そうとしなかった。
真実に、手を伸ばそうとしなかった。
その結果、完全に失ってしまうという事にも気づかずに。
「生きればいいじゃねぇか。 不格好でも何でも生きりゃいいんだよ。
死んだらどうにもならないが、生きてりゃどうにだってなる。 どうにだってできるんだよ。
死んだって誰も褒めてくれはしねぇが、生きた事によってお前はきっと評価される。」
フッと陰った視界。
額に感じる手の平のぬくもり。
「頑張ったな、。」
溢れた涙はとめどなく流れ落ちる。
胸の内にじんわりと沁みこんできた一言。
この一言に私の涙腺は止まる事を知らないくらい簡単に緩んでいった。
頑張った。
頑張ったんだよ私。
負けたくなくて、自分自身に負けたくなくて、ずっと戦い続けて。
だけど、負けそうになった。
周りが見えなくなって、みんなに支えられている事に気づけずに、ヒトリだと思い込んで負けそうになった。
でも、でもね。
また頑張った。
頑張ったんだよ、私。
精一杯、頑張ったの。
だからこんな言葉を
そんな優しい声で、
そんな優しい顔で口にするなんて、
ずるいよ、跡部。
「……ありがとう。」
ぽつんと呟いた言葉に跡部は一瞬だけ目を丸くする。
けど、すぐにいつもの表情に戻り、大きな手の平で私の瞼をそっと撫でた。
微かに聞こえた「バーカ」って言葉は何故だか心地いい。
夢の中のようにふわふわしてて、妙に落ち着く。
私、ありがとうって言葉、心から初めて跡部に向けて伝えた気がするよ。
初めて部室に連れて行かれた時は訳もわからず嫌々口にした覚えがある。
そういえば、私、跡部のことが嫌いだったんだなってことを今更になって思い出した。
「もう二度と馬鹿な真似、すんじゃねぇぞ。」
怒りは含んでないはっきりした口調。
跡部の手のせいで目を開けることはできなかったけど、
少しだけ間をあけて小さく頷いた。
ありがとう、跡部。
ありがとう、みんな。
叩かれた頬、痛かったけど、嬉しかったんだよ、日吉若。
何も聞き入れなかった私に必死に生きてと伝えてくれたよね、鳳長太郎。
宍戸亮に掴まれた腕、
滝萩之介に差し出されたナイフの冷たさと重さ。
忘れられない。
忘れられないよ、今も。
耳の奥で雨の音がずっと鳴り響いてる。
意識を手放す前の、あの全てを捨てきったあの脱力感を、私はきっと忘れない。
ありがとう、みんな。
こんな私を、いつも助けてくれて。
ごめんね、みんな。
そんな君たちの存在に気づく事ができなくて。
死んでいたらきっと、こんな気持ちにはなれなかったんだよね。
死んでいたらきっと、私は本当にヒトリぼっちのままだったんだよね。
だから私、生きてて、よかった。
死ななくて、本当によかったって、今すごく実感してる。
「ってイタイイタイイタイイタイ痛いぃぃぃぃいいいいいいい!!」
「何満足そうに笑ってやがる、ふざけんな気持ち悪ぃんだよ。」
「痛いイタイイタイ放せコノヤロ!! 私に安静にしてろって言ったのドコの誰よ!!」
「暴れるな安静にしてろ。」
そう言うならこの顔面掴んでる手を放せ!!
跡部の手を掴んで必死に引き剥がそうと試みるけど力勝負で敵うはずもない。
頭じゃわかってるんだけど痛いから体が勝手に抵抗する。
(そういえば、跡部とこういう風にファイトするのって、すごく久しぶりな気がする。)
跡部の手が私の顔から離れて漸く視界が明るくなる。
ベッドの上で寝転んだまま暴れたせいか、息が上がってうまく喋れない。
乱れた息を整えながら、満足そうに嫌味な笑みを浮かべてる跡部を軽く睨んだ。
「睨んでも怖かねぇぞ。」
「睨んでないわよ、見つめてんの。」
「相当目つき悪いんだな。 そんなんじゃ男に逃げられるぜ。」
「うっるさいなアンタはいちいち!!」
イラっときて枕を投げつけてやろうと持ち上げたら、いとも簡単に取り上げられてしまった。
くそ、その余裕の笑みがムッカツク!!
一度でもコイツに感謝した自分が憎い!!!!!
「……アイツ、」
「え?」
急に跡部がぽつりと口に出した言葉をうまく聞き取れず、聞き返す。
ちょっと嫌そうに眉を跳ね上げたが、跡部は枕を私に返すと、どっぷり暗い窓の外を見つめながらもう一度口を開いた。
「今日、アイツと試合をした。」
「………アイツ?」
「棟田、秋乃だ。 アイツ、タイブレークになったところで急に中断しやがった。」
試合って、テニスのこと?
秋乃と跡部が、テニスの試合を?
しかもタイブレークって、跡部と互角ってことになる、のかな。
テニスのルールってよくわかんないけど、たぶんそうなのかもしれない。
私が黙って跡部を見上げると、跡部は窓の外から視線を病室内へと戻し
「だから明日、もう一度その続きをやるつもりだ。」
そう言って私の顔をじっと見据えた。
跡部は一体、何が言いたいのだろうか。
それを私に伝えて、どうするつもりなのだろうか。
「絶対、負けねぇよ。」
冷たい色、だけどその奥は激しい闘志を抱いた瞳がかち合う。
自分の自信を疑わず、上がった口元。
そんな彼の勝気な態度が、嫌いだった、はずなのに、
「がんばって、跡部なら、絶対に勝てるよ。」
なのに私、いつからその強さを認めるようになったんだろう。
いつからその強さに、信頼を抱くようになっていったんだろう。
彼を受け入れる事ができなかったのはきっと、
私自身が弱かったからなんだろうなって、今の私ならわかる気がするんだ。
***
「秋乃、っ、秋乃!!」
ぜぇ、ぜぇ、
「しっかり! 誰か、伯母さん!!」
ゲームはもうすぐ、終焉を迎える。
きっと、誰もがそれを望んでいるはずなのに
その時が来るのを恐れているのは何故だろう。
2008.01.15 加筆修正