君が教えてくれたモノ
辛い現実から逃げる事を嫌った君。
強いなって思った。
だからどこかで安心してたんだ、まだ大丈夫だって。
君は決して強いわけじゃなかったのに。
「――― ああ、そうかわかった。 ありがとう、また何かあったら連絡してくれ。」
携帯を閉じ、小さく息を吐いて隣を見るとマジマジと自分の顔を見つめるブン太の姿があった。
どうやら電話が終わるのを待っていたようで、何の用でこのクラスに来たのかだいたい予想が付いていた柳は
少し驚いたがそれをあまり表に出さないよう、やれやれと思いながらも「どうした。」と聞いてやる。
するとブン太は目をぱちくりさせて言った。
「誰から電話? 珍しいじゃん参謀が俺に気づかないなんて。」
「……何の教科書が必要なんだ? 丸井のクラスは確か次の授業は国語だったか。」
「何で知ってんだよ。 まあいいけど、国語の教科書貸して。 柳のクラス、さっきの授業国語だったろぃ。」
「ああ、少し待て。」
一度机の中にしまった教科書を取り出す。
分厚いその教科書を手渡すと、サンキュとお礼を言ったにも関わらず立ち去らないブン太。
不審に思って顔を上げると、ブン太が腑に落ちない表情で怪訝の眼差しを自分に向けていた。
「今日の柳、変だぜ。」
「どこが変なんだ、失礼な奴だな。 教科書借りたならさっさと自分のクラスに戻れ。 それと、いつも言うがちゃんと教科書を持って来い。」
「国語の教科書は無駄に太いから重いんだよ。 ……ってそうじゃなくて、柳、」
早く追い払おうとしたのが仇になったか、ブン太は一行にその場を動こうとせず、
借りた教科書を肩に載せながらじっと柳を見下ろしていた。
いつもの涼しげな表情を保とうと思うも、先ほどの電話の内容が頭をチラついて未だに焦りを隠し切れていない。
ブン太にまでそれを見透かされるとは、自分も落ちたものだと柳は少し気落ちした。
「やっぱ変だ。 いつもなら教科書借りる時厭味たらたら言って貸してくれんのに。 ずっと眉間に皺寄ってるし、どうしたんだよ。」
「何もない。 お前の思い過ごしだ。」
「いいや、違うね。 俺バカだからって甘くみんな。 電話の相手、誰なんだよ。」
「……聞いてどうする。」
強情なブン太の性格にほとほと呆れながら柳は溜め息を吐く。
「昨日、ここに氷帝の奴が来たって、……幸村君が言ってた。」
スッと細まる目が僅かに肩を揺らした柳を捕らえる。
ビンゴだと察したブン太がさらに聞く耳持たずに柳の前の空席に腰を下ろした。
聞くまでは立ち去らないと、行動として表す。
それを見た柳はブン太の性格上これ以上はどう言っても一方通告だと思い、仕方がないと諦め、もう一度溜め息を吐いた。
「電話の相手は、ソイツだ。」
「……今氷帝が大変な事になってるってのはさっき幸村君から聞いた。」
「だったら話は早いな。 今朝、が棟田に階段から突き落とされ病院に運ばれたそうだ。」
「なっ!!」
目を見開いて驚くブン太。
詳しい事はまだわからないから折り入って連絡してくれるそうだと伝えれば
唇を噛み締めながら「そっか…」と言って黙り込んだ。
昨日の部活後、ほとんどの部員が帰った後も日課である自主練習をしていた柳、幸村、真田。
ブン太は今日はジャッカルと赤也とラーメンを食べに行くと言ってさっさと帰ってしまい、仁王と柳生はそれぞれ帰路についた。
閉校ギリギリまで練習をし、真っ暗になったコートを出てジャージのまま家へ帰ろうと三人は校門を出た。
そこに立っていた見覚えのある人物。
彼は少し戸惑った様子を見せながらも話があると言って三人を引き止めた。
そこで知らされた合宿後の氷帝の現状。
棟田が氷帝に行ったということだけは知っていた柳は当然何かが起こっているだろうと想定はしていた。
だが、実際どうなっているかはまだ知らずにいたので、聞かされた内容に思わず表情を歪めた。
「……越前が氷帝に来た事で、状況が悪化したのか、それとも…」
少なくとも、アイツらの心を揺るがせたのは間違いない。
柳はノートを手に取り、じっとそれを見下ろした。
相手の為に相手を傷つける。
その行為は正しいのか、間違っているのか。
そんなことはわからない。
だけど良いことではまずない。
だからと言って改善策があるのかと聞かれれば、ない。
(堂々巡り、なんだな…)
越前の言葉に心を動かされ、行動に出た奴がいる。
だがその為に今回引き起こされたこの事件。
そして、立海を訪ねて来た奴は、
今度は何を仕出かそうとしているのか。
「そろそろ、潮時なのかもしれない。」
「……何がだよ。 さっきから一人でブツブツ言って、俺と話してんだって忘れてんじゃねぇよな。」
「丸井、今日、行ってみるか。」
「はあ、何処に?」
不機嫌丸出しの表情を浮かべたブン太が素っ頓狂な声を出す。
柳はノートを開いて走り書き程度に何かをメモすると、顔を上げて言った。
「アイツの見舞いに、行かないかと言っているんだが。」
動き出すかもしれない。
どう転ぶかなんて、未来の事はわからないけれど。
確かに歯車は少しずつ噛み合わなくなってきている。
それは、一人じゃないから。
一人だとこの先もずっと同じスピードで同じ方向を回り続けることだろう。
だけど、アイツの周りには沢山の歯車がある。
決して同じスピード、方向には回らない自分勝手な奴らばかりが集まって、
今までずっと一定のスピードで回り続けていた歯車を狂わせていく。
引かれたレールを歩く奴らじゃない。
だから、決められたゲームのルールを守るなんて事、アイツらはしないんだろうな。
柳はフッと口許を緩めて笑い、ノートの端に書いた文字を指でなぞった。
“、602号室”
「跡部!!!」
昼休みに入ってすぐ、さっきの時間に戻って来た跡部の元にテニス部レギュラー達が集まる。
もちろんその中には病院に付き添っていた向日もいる。
クラスの女子達は思いがけないレギュラーの集合に黄色い声を漏らし、男子は何事だと目を瞬かせた。
それぞれ表情を曇らせながら跡部の周りに集まるレギュラー達はの安否を早く聞きたいため、落ち着きがない。
その様子をじっと見ていた跡部が開いたままだった教科書を閉じ、机にしまった。
それを合図に待ちきれなかった宍戸が少し前へと踊り出る。
「安心しろ、命に別状はない。 だが頭を強く打ったからな。 しばらく検査入院だ。」
「……アイツが今に付き添ってるって、本当か?」
「ああ。 …だが、病院だ。 下手な真似はしないだろう。」
「甘いよ、跡部。」
「あン?」
眉を跳ねた跡部の視線が滝へと向く。
宍戸の後ろに立っていた滝は眉間に深い皺を刻んだ険しい表情でギッと跡部を睨みつけた。
「アイツは、誰が何処で何がどうあろうとも、周りなんてお構い無しに何だってする。」
それが許されてきたんだ、と続けて言った滝の言葉を聞いて向日が跡部に視線を向けた。
向日が言わんとしている事が何となくわかった跡部はチッと舌打ちをして立ち上がった。
ガタンと椅子が音を立てる。
少し荒々しく立ち上がった跡部はそのまま取り囲むレギュラー達の間を割って教室を出て行った。
忍足は追いかけようかとも思ったが教室を出て行く跡部の背中が
一人にしてくれ、と言っている気がしたので踏み出そうとした足を思い留まった。
わかってる。
だからと言ってどうしようもないことくらい。
跡部だって本当はを一人にしたくない事くらい。
の傍にアイツを近づけさせたくない事くらい。
わかってるんだ。
ここに居る誰もが、わかっている事。
跡部に言ったからって、どうしてやる事もできない事くらい。
それが、ゲームと称されたただの牽制である事くらい。
跡部が立ち去って暫くの沈黙の後、長太郎が「あの…」と声を上げた。
俯いていた顔を上げ、長太郎に視線が集まる。
「俺、今日先輩のお見舞いに行こうと思うんですけど。 ……行きませんか?」
目を見開く忍足、滝、宍戸。
じっと長太郎の顔を横目で見つめる日吉。
何も言わない樺地と、慈郎。
それら全てを代表したのは表情を歪めた向日だった。
「バカ言えそんな事してみろ! またがアイツに何かされるかもしれないんだぜ!」
「確かにそうかもしれません。 でも、このままでも事態が悪化する一方ですよ。」
「……実際、俺がアイツに話しかけたから…だからこうなったんだ! んな事したら今度はアイツ本気で殺されちまうかもしんねぇって!」
絶対にダメだと、頑なに首を振る向日。
きっと自分のせいで突き落とされたに対する罪悪感が彼の中を大いに締め付けているんだろう。
自分も今朝の話を耳にした時の衝撃を思い出し、長太郎は視線を落とした。
「だったらどうして向日先輩は先輩に話しかけたんですか?」
「え、」
「越前の言葉を聞いて、このままじゃダメだって、そう思ったからじゃないんですか?」
「……それは…、」
「あの人はゲームなんて言ってますけど、俺、これがゲームだとは思えません。」
言葉に詰まる向日を見据え、長太郎ははっきりとした口調で言った。
ゲームという言葉に眉を寄せた宍戸が苦い表情を浮かべる。
思い出すのは、アイツが転校してきた日の朝。
合宿も終わり、これからまたいつもと変わらない生活が始まると思っていた矢先の出来事。
登校中のを追い越し、部室のドアを開けて見た世界は絶望だった。
部室の真ん中で跡部の腕を掴んで笑っているアイツ。
とにかく話があるとレギュラー全員は部室から誰も居ない生徒会室へと移動させられた。
そこで持ちかけられたゲーム。
誰もが腑に落ちない表情で、だけどそうすることでしかを救ってやれない彼らは、
苦肉の思いでそれに承諾した。
「俺達が先輩に関わらなければ絶対に何も手を出さないって、あの人はあの日そう言いましたよね。
だから俺達はただ突き放して話しかけなければいいって思った。 でも、よくよく考えたらそれはすごく難しい事なんですよ。」
大丈夫だと、そう思ってた。
関わらなければ、話しかけなければ。
合宿前の自分たちに戻れば、それで問題はないと。
実際に、今まではと付き合って来なかったんだ。
また普段どおりの生活を送ればそれでは助かると思っていた。
だけど、
「だって俺達ってもう、先輩と仲間じゃないですか。」
あの日から。
食堂でを見かけたあの日から。
もう既に彼らは赤の他人ではなくなっていたはずなのに。
ほんの二週間弱の日々しか共に過ごしては来なかったけれど、
確実に彼らの距離は縮まってしまっていた。
自分たちが距離を置けばそれでが助かるならと、痛む胸を抑えて突き放した。
だけど、突き放せば突き放す度に生まれる罪悪感。
アイツから与えられる身体的苦痛からを守ってやりたくて、何度も突き放していたはずなのに。
傷つけていたのは、結局俺達自身だった。
「あの日の朝、先輩が向日先輩と忍足先輩の名前を呼んだ時、少しでも俺達に心を開いてくれたって証拠だったなら、」
「そんな俺達から見放されるほど、辛い事ってないんじゃないですか?」
長太郎の言葉に全員がハッとした様に顔を上げる。
反対に、泣き出しそうな表情で震える声を抑えて長太郎は俯く。
そんな長太郎の肩にぽんと手を置き、宍戸は言った。
「俺、行くぜ。」
「宍戸、さん…」
「見舞い、行こうぜ。 俺、自分の気持ちに嘘つき続けられるほど、器用じゃないから。 そろそろ限界だったんだよな。」
「……だけど宍戸、長太郎。 もし秋乃がそれを知ったら、どうするつもりなの?」
すぐさま滝が口を挟む。
滝の言葉は冷たい。
まるで、お前達がアイツに勝てるのか、そう言っているようで。
そんな滝の言葉に反論したのは宍戸でも長太郎でもなく、
跡部が出て行ったドアの向こうを眺め、ずっと黙り込んでいた忍足だった。
「アイツが動き出そうとするんやったら、俺にええ案がある。」
眼鏡越しにスッと細めた目が滝を捕らえる。
「勝算は、あるの?」
「五分五分や。 俺自身まだはっきりわかってへんし、気になりだしたん最近やしな。」
「…何の話だよ、侑士。 何、気になりだした事って。」
「それはまだ言われへん。 確信がないからな。 そやけど、下準備は一応出来てるんや。」
「下準備?」
樺地に背負われた慈郎が首を傾げる。
しかし忍足は何も答えず、ただ口の端を持ち上げて薄く笑みを浮かべた。
ガタンゴトンガタンゴトン
何度目か分らない電車の音が窓の外から聞こえてくる。
病室には一人。
誰も、いない。
今は何時だろうか。
それもわからない。
もう褐色へと変化してしまった皿の上に綺麗に切りそろえられたリンゴを横目で見下ろし、
ガシャンっ
椅子の上から払い落として床の上へと転げ落ちるリンゴと砕ける真っ白な皿。
カランカランと滑るように床に落ちた果物ナイフ。
電気も点けていない薄暗い病室。
ベッドから裸足で下り、砕け散った皿とリンゴへと歩み寄る。
「っ、」
ガラスの破片で切った指から涌き出るように流れ出す真っ赤な血液。
眩暈がした。
吐き気が、止まらない。
くらくらする頭の中では、ここ数日の思い出ばかりが浮かんでは消える。
苦しかったはずなのに。
嫌だったはずなのに。
楽しかったなって思い出ばかりが頭を過ぎる。
笑って、心が温かくなって、
『!』
『。』
『ちゃん!』
『先輩。』
『さん。』
『先輩!』
『。』
彼らにもう一度、笑顔で名前を呼んで欲しいと、そればかりを願ってしまう。
雨が降り続ける窓の外。
血が出る指をそっと舐め、ちらりと窓の外を一瞥する。
そしてそのまま床に落ちたモノを手に取り、湿気を含んだ廊下へと出る。
しんと静まり返った病院の廊下は、まるで初めから誰もいないんじゃないかってくらいひと気がなかった。
「約束、守れなかったね。」
入院している病室の向かいの棟の屋上の柵に体を預ける。
降り注ぐ雨に打たれて髪が額や頬にへばりつき、止め処なく流れてくる雨滴に目を細める。
屋上への扉は入れないようにと鍵が掛かっていた。
だけど私は知っていた。
自分が入院しているここより一階分高い病棟の窓から飛び降りればこちらへ出てこれる事を。
秋乃とお母さんが帰った後、ずっと病室の窓からこの屋上を眺めてた。
きっと鍵がかかってることを予測済みだった私は、どうやったらあそこへ上れるだろうかといろいろ試行錯誤して考えてみた。
そこで気づいたのがこの病棟が向かいの病棟より一階分高く作られている、ということだった。
L字型の病棟なので向こうへ行くには最上階の一番端にある窓を使えば簡単だった。
「あの子も、こんな気持ちだったのかなー……」
みんなから見捨てられて、助けてもらえなくて、だけどその中でずっと頑張ってきた。
取ってほしい手を、振り払われて。
その手は空を切って自分の元へと返って来た。
もう、このズタズタの心を助けてやれるのは、自分しかいない。
「でも私、もう何もないから、いいの。」
私が死んで、悲しむ人なんていない。
いらないって言われちゃったから。
生まなきゃよかったって、そう言われたから。
そう、私は“ヒトリ”だから。
――― !! ……あの、あのさ!
彼は一体何を告げたかったのかな。
もうこれ以上何もいらないからその手を振り払って突き放した私を、
大きな目を見開き驚いて、傷ついた表情で見つめた彼。
「ごめんなさい、もう、疲れた ―――」
フッと口許に笑みを浮かべて手に握っていた果物ナイフを空へと翳す。
雨の滴が次々とそれにぶち当たり、腕を伝って流れ落ちてくる。
雨だか涙だかわかんないモノが次々に頬を伝って流れ落ちる。
歪んだ視界。
熱く焼けたような喉の痛み。
押し殺した嗚咽が、苦しい。
悲劇のヒロインぶってるだとか、
根性のない奴だとか、
バカで愚かでどうしようもない奴だとか、
どう言われても仕方がない。
だって、本当に馬鹿げている。
こんな死に方、一番したくなかった。
それなら誰かに殺された方がまだ幾分かマシだって、そう思ってた。
だけど、この世の中を一人きりで生きていけるほど、私は強くない。
叩き付ける雨。
誰もいない屋上で、一人、空を見上げながら手に持ったナイフを首元へと移動する。
そして、薄く開いた口から絞り出すような声で呟く。
「サヨナラ」
最後にもう一度、アイツらがテニスしてる姿、見たかったな。
そん時が一番キラキラと輝いてて、結構好きだった。
だけどそれはもう、叶わない夢だけど。
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あとがき 2008.06.19
今回より次回の方が山場ですかね…。
病み病み状態のまま終わってごめんなさい。
でもずっと書きたかったシーンを書けてユギリは幸せです。
え、何悪趣味? 聞こえません。