君が教えてくれたモノ

 

 

 

真っ白なベッドの上で寝息を立てて眠る姿。

触れた唇。

まるで、死別を惜しんでいるような、そんな場景。

 

だけど確かに熱を感じて、無防備に放り出された小さな手をギュッと握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病室から跡部が姿を現す。

廊下の壁にもたれて俯いていた向日がハッと顔を上げて悲痛そうな視線を跡部に向けた。

 

 

 

 

 

「んな顔すんな。 大丈夫だ、間抜けな顔して寝てやがる。」

「……っ、あ、跡部…俺っ…!」

「お前の責任じゃねぇから、安心しろ。」

「でもっ俺が…!!」

 

 

 

 

 

悲愴な面持ちで見上げてくる向日の頭をポンポンとあやしてみるも、効果はないようで。

向日はずっと唇を噛み締めてその顔を歪めていた。

 

“602 様”と書かれた表札に視線を向け、跡部は小さく溜め息を吐いた。

 

 

 

 

 

まさかこんな事になるとは、跡部自身、全く想像していなかった。

朝、天気も悪く、憂鬱だと思いながら一時間目の授業の開始のチャイムを聞き流していたら

しばらくして廊下のずっと奥の方から誰かの怒鳴るような声が聞こえてきた。

ざわつくクラスメートとは反対に、何か揉め事でも起こっているのだろうかなどと、さほど気にも留めていなかった跡部だったが、

 

 

 

 

 

『あ、あ…あ、跡部っ跡部!! っが!!』

 

 

 

 

 

真っ青な顔をした向日が授業を開始したばかりの教室に入ってきた。

たぶんあの階段から一番近い教室だったからだろう。

焦って混乱している向日にとって跡部以外は見えていないようで、ただひたすら跡部の名との名を叫び続けた。

クラスメート達は向日が突然教室に入ってきた事と真っ赤に染まった手の平を見て次々と悲鳴を上げていく。

の名前が向日の口から告げられた事と、その必死な顔を見て只事ではないと判断した

跡部のクラスの授業を受け持っていた先生と共に跡部は教室を飛び出し、

向日に連れられ、階段の下で頭から血を流して倒れているの元へと駆け寄った。

 

 

 

 

 

「とりあえず、俺達は一度学校に戻らねぇと。 この時間だとまだ四時間目が始まったばかりだな。」

「……ん、でも…、」

 

 

 

 

 

大きな目がゆらりと揺らぐ。

扉の向こうで眠るを思い、向日は居ても立ってもいられない気持ちを抑える事など出来なかった。

ただ頭の中は、あの時の出来事がフラッシュバックするだけ。

 

 

 

 

 

『っ、! おいしっかりしろ! !』

 

 

 

 

 

ハッとして目の前で仰向けに横たわるを抱き上げる。

頭を持ち上げようとした瞬間、手の平にぬるりとした生温かい感触がした。

 

 

 

 

 

『ッ、血が…!』

 

 

 

 

 

真っ赤な自分の手の平を見た途端、向日の中の何かがプツリと切れた気がした。

我を忘れてを抱き抱えたまま、階段の上から向日達を見下ろしている棟田を睨み上げた。

棟田はただ冷めた顔つきで二人を見ているだけ。

いや、むしろ無表情と言った方が近いのかもしれない。

 

 

 

 

 

『お、お前っどういうつもりだよ!! 冗談過ぎんじゃねぇのか!?』

『………、』

『何とか言ったらどうなんだよ!! 打ち所悪かったら、死んじゃうかもしれないんだぞ!!!』

 

 

 

 

 

口にして、向日はハッとした。

今自分の口から紡がれた言葉の重さに、向日は顔の色を見る見るうちに変えていく。

腕の中で頭から血を流して目を閉じているを見下ろし、向日は目を見開いた。

 

 

 

 

 

―――  が 死 ぬ か も し れ な い ?

 

 

 

 

 

その事実が物凄く恐ろしいモノだと実感した途端、腕の中のが急に重みを増した気がした。

 

 

 

 

 

『だから、何?』

 

 

 

 

 

だけど、次に棟田の口から出てきた言葉に、向日は自分の耳を疑った。

 

だから、何、だと?

 

 

 

 

 

『だったら、ソイツはいらない。 死んじゃったら用はない。』

 

 

 

 

 

そう言って棟田は階段をゆっくりと下りて行き、そして向日との隣で立ち止まった。

背中を向けたまま、表情を見せずにただ冷たい口調でこう続けた。

 

 

 

 

 

『俺が、憎い?』

 

 

 

 

 

向日は何も答えない。

何も、言えなかった。

目の前の男の言動がまるで理解できなくて。

 

震える腕でを抱きかかえ、大きな目を見開きながら棟田の背中を睨み上げる。

その無言を肯定ととったのか、棟田は肩越しに少しだけ振り返って

 

 

 

 

 

『殺したいくらい憎いんだったら、殺しに来ていいぜ。』

 

 

 

 

 

温度のない口調でそれだけを言い残し、その場を去って行く。

いまだ湿気を含んだ空気が漂う階段に響く足音。

その音が完全に消えてなくなったと同時に腕の中のの存在に気が付いた。

慌ててをその場に横たえ、階段を駆け上がる。

 

はあ はあ はあ

 

乱れる呼吸。

鳴り止まない煩い心臓の音。

 

とにかく縺れそうになる足を必死に動かしてすぐ近くの教室に飛び込んだ。

戸を開けすぐに目に付いた跡部の姿に向日は必死になってその名を呼んだ。

縋るように、助けを求めるように何度も何度も。

 

 

 

 

 

――― 殺しに来ていいぜ。

 

 

 

 

 

頭を掠めるのは棟田の去り際の台詞。

手に残るのは、真っ赤での温かいぬるりとした感触。

 

怖かった。

失うのが。

怖かった。

死を映すあの瞳が。

 

 

 

 

 

「あっれー何で跡部君がここにいるんですかー?」

 

 

 

 

 

振り返る。

色とりどりの果物と赤い薔薇の花束を持った棟田が声色とは裏腹に、温度のない瞳で跡部を睨みつけていた。

 

跡部の表情が一変して険しいものへと変化する。

さきほどまで頭に思い浮かべていた人物が突如目の前に現れ、向日も戸惑いを隠せなかった。

 

 

 

 

 

「なあ、ゲームのルール、わかってんの? 再確認した方がいい?」

「……ゲーム、だと?」

 

 

 

 

 

棟田の台詞に跡部の眉が跳ね上がる。

向日がグッと唇を噛んだ。

 

 

 

 

 

「ゲームだろ? どいつもこいつもルール破りやがって。 だからも階段から落ちたりするんだよ。」

「落ちたんじゃない! お前が落としたんじゃねぇか!」

「落ちたんだよ、向日君。 だって、アンタ、見てないだろ?」

「……え?」

「向日君、俯いてたじゃん。 見てないだろって言ってんの。」

 

 

 

 

 

ニッコリ笑った棟田を見て、向日は背筋に汗を伝わせる。

跡部の視線を隣から感じるが、口だけが開いて何も言うことができない。

 

だって、そうだ。

事実だから。

見てなかった。

見たのは落ちた後のと、落ちる際に聞こえた悲鳴。

証拠が、ない。

 

 

 

 

 

「さ、帰った帰った。 もうすぐのオバサンが来るから、お前達に用はないよ。」

「ふざけんな! お前置いて帰れるかよ! どうせまたに何かするつもりなんだろ!!」

「だーかーらー、しつこいな向日クン。 俺は何もしてないって。 だってゲーム中は、」

「でも俺がに話しかけたから!」

「………、」

 

 

 

 

 

跡部の視線が向日に突き刺さる。

口を閉ざした棟田の目がスッと細くなって顔を歪めた向日を見据えた。

 

 

 

 

 

「ふーん、自覚あったんだ。 だったら、勢いだけで動くのは控えた方がいいぜ、単細胞な向日クン。」

「っ、!」

「ゲームのルール違反ってのはお前が思ってるほど、甘っちょろいもんじゃねぇから。」

 

 

 

 

 

薔薇を一本抜き出し、二人に歩み寄る。

向日の体がビクリと跳ね上がり、硬直を増す。

しかし棟田の視線と足先はその隣に居た跡部へと向いていた。

足音が止まり、向かい合う二人の鋭い視線がピタリとかち合う。

 

 

 

 

 

「お前のその目、嫌いだったよ昔から。 俺に似てるようで、微妙に違う。」

「………、」

「せっかくだから、もう一つだけ忠告してやるよ。 跡部景吾。」

 

 

 

 

 

手に持っていた薔薇の花を跡部の目の前に差し出す。

真っ赤な、真っ赤な薔薇。

まるで、花弁一枚一枚に血液が流れているような、真っ赤な薔薇。

 

 

 

 

 

「大切なモノを失いたくなかったら、」

 

 

 

 

 

大きな手の平が開き、赤い薔薇はぎゅっと力強く握り潰される。

 

 

 

 

 

「大切なモノなんて初めから作んじゃねぇよ。」

 

 

 

 

 

鋭い目が突き刺さる。

ゆっくりと開いた手の平から零れ落ちた花弁がヒラヒラと足元に降り積もる。

釣られて視線を辿ると、棟田の足が花弁をにじり踏んだ。

 

 

 

 

 

「跡部にとってのは、何?」

「………、」

「大切なモノなんかじゃ、ないだろ。 を大切だって思う人間はこの世でただ一人、俺だけでいい。 だから、」

 

 

 

 

 

「邪魔すんな。」

 

 

 

 

 

きゅっと靴と床が擦れる音が鳴る。

今しがた跡部が出てきたばかりの病室に入って行く棟田の背中をじっと見据えて拳を握る。

 

何も、言い返せない。

これが、ゲームだから。

アイツを守る為の、手段だから。

何を言うことも、許されない。

 

 

 

 

 

「……跡部、」

「行くぞ、学校。 さっさと行かねぇと昼休みになっちまう。」

「でもが…! それに今アイツと二人きり…、」

 

 

 

 

 

向日が言い終わらないうちに背を向ける跡部。

向日はその腕を縋る思いで掴んだ。

跡部が振り返らずに視線だけを必死な形相で見上げる向日に向けた。

 

 

 

 

 

「だからって、アイツが目を光らせている限り、下手に近寄れねぇだろうが。」

「わかってっけど、でもっ! このままだとの身がっ、」

「だからそれが間違いだって言ってんのがこの状況でまだわかんねぇのか!!」

「!、」

 

 

 

 

 

目を見開いて肩をビクつかせる。

そんな向日を見て小さく舌打ちを鳴らすと掴まれていた腕を解き、跡部はひと気のない病院の廊下を歩き出した。

 

 

 

 

 

「……何の為に俺達がに関わらねぇって決めたのか、わかんなくなるだろうが。」

 

 

 

 

 

絞り出すような低い声で呟いた跡部の言葉が、ぐっと唇を噛み締めて俯いていた向日の耳に届く。

ハッとして顔を上げると、跡部の広いようでちっぽけな背中が視界に入った。

 

締め付けられる胸の奥深く。

熱い喉が焼けるように痛い。

 

浮かない表情のまま、向日と跡部は重い足引きずる思いでまだ四時間目の授業を始めたばかりの学校へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さい頃から飼ってた犬をアイツが何処かへやってしまった時。

頭に血が上った私は初めてアイツを怒鳴りつけた。

モノをいっぱい投げて、いっぱい罵声浴びせて、泣いた。

アイツは黙ってそれを見ているだけで、何も言わないし何の表情もない。

 

ただ、殺されると思った。

あの目を見て、私も殺されるんじゃないかって思った。

 

だけどアイツは、私の思いとは裏腹に、小さくポツリ、殺してくれてもいいと言った。

私の手を掴んで自分の首元まで持って行って、笑うんだ。

 

 

 

 

 

、将来は秋乃君とケッコンするの?』

『……しないよ。 勝手な妄想しないで。』

『どうして? 付き合ってるんだからそれくらい考えておかないと。 逃げられちゃうかもしれないじゃない。』

『…………もういい。』

 

 

 

 

 

お母さんはお金が絡むと盲目で。

化けの皮を剥がしたアイツの正体を知らない。

私がいくら顔に痣を作って帰ってきたって、どれだけ泣いて助けを求めたって、

アイツのことばかりを信じて、何を言ってるのって顔をして、その手を振り払う。

そのくせ、大金を手に入れる為の最後の砦である私に必死に縋りつこうとする。

きっと、お父さんもこういったお母さんのお金に対する執着に嫌気がさして出て行ったんだと思う。

 

 

 

 

 

『もう…嫌……』

、そんなこと言わないで……』

『だったら氷帝の誰か捕まえてくるから!!だからもう……アイツはやめて!』

 

 

 

 

 

怖かった。

怖かったから、逃げるしか他なかった。

逃げれるなんて思っていなかったけど、とにかく離れたかった。

アイツから離れられるなら、どんな事をしたってよかったんだ。

アイツから離れられるなら、どんな事だって頑張れると、そう思ったんだ。

 

お母さんはそんな私を見て、ただ不満そうに顔を歪めた。

胸が、痛かった。

 

 

 

 

 

『ごめんなさい、、もう貴方に会いたくないんですって。』

『え、』

『どうしてなのかしらねぇ、困った子よ本当。 親としても本人が会いたがらないとなると、無理に会わせるのはちょっとね。

私自身、本当は秋乃君とずっといい関係でいてほしかったんだけど……ごめんなさいね、帰ってくれる?』

『………、』

 

 

 

 

 

玄関でお母さんとアイツが何かを話してる。

震える手でドアノブを握り、そっと聞き耳を立てて息を潜めた。

どっくんどっくん血液が流れ出る心臓の音がやけに煩くて、アイツが口にした最後の台詞だけが聞こえなかった。

 

 

 

 

 

『じゃあ時が来たら、また会いに来ます。』

 

 

 

 

 

この言葉だけを、私は聞き逃してしまったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消毒液の臭いが鼻につく。

温かな感触が名残惜し気に去っていく。

 

行かないで。

行かないで。

 

ヒトリにしないで。

 

どうか、触れた手を、握り締めてくれたこの手を、ずっと放さないで。

もう、一人になるのは嫌。

だからお願い。

 

私を一人にしないで。

 

 

 

 

 

スッと目を覚ますと真っ白な天井。

目尻を伝う涙と額に滲む汗。

ズキズキと痛む後頭部に吐き気がする。

頭に巻かれた包帯と硬いベッド。

見覚えのない風景に一瞬戸惑いはしたが、すぐに自分が置かれた状況を思い出した。

 

そうだ、確か私、岳人から逃げ出して階段を駆け上がったところで秋乃に突き落とされたんだっけ。

そこからの記憶が全くないからたぶん病院にでも運ばれて来たんだろう。

 

カタン

 

物音がして振り返る。

白いシンプルな花瓶に真っ赤な薔薇の花を挿して薄っすらと笑みを浮かべている秋乃の姿がそこにあった。

 

途端に跳ね上がる心臓。

速さを増す鼓動が全身に猛スピードで危険だと言うシグナルを送る。

やばい、やばい、やばい。

何もしていないのに、呼吸が荒くなってくる。

どうしよう、どうすればいいの。

 

頭の中がグルグルと回りだして、打ったと思われる後頭部がズキンズキンと痛みを増す。

そんな私に気づいたのか、秋乃はスッと視線をコチラに向けて「あ、」と声を漏らした。

 

 

 

 

 

「目、覚めた? オバサン今担当医に話聞きに行ってるから、もうすぐしたら帰ってくるぜ。」

「……なんで、ここに…」

「何でって、可笑しな質問だな。 彼氏が見舞いに来ちゃダメなわけ?」

「か、彼氏!? 誰がよ!! 寝惚けた事言わないで!!」

 

 

 

 

 

手元にあったティッシュ箱を秋乃に向かって放り投げる。

それを軽々キャッチした秋乃がニヒルに笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。

 

瞬時に自然と体が硬直を増す。

ベッド脇で立ち止まった秋乃が私を見下ろすようにして手を伸ばした。

 

 

 

 

 

「こんな姿になっちゃって、可哀想に。」

「……アンタのせいでしょ! 私のこと突き落としたくせに!」

「だって、向日岳人と喋ってたから。 嫉妬しちゃった。」

「!、な、喋ってなんか……っ、な、何!?」

 

 

 

 

 

手首を掴み、ひっぱる。

その手は秋乃の首元に宛がわれ、氷のように冷たい、だけどどこか寂しそうな目が私を捕らえた。

どうすればいいのかわからず彷徨っていた指達が、秋乃のもう一方の手で優しく折り畳まれる。

困惑した私の目が秋乃を見上げると、秋乃は相変わらずのニヒルな笑みを返してきた。

 

 

 

 

 

「俺が、憎い?」

「……、ちょ……、」

「殺したいほど、憎い?」

 

 

 

 

 

憎い?

秋乃が、憎い?

 

……憎いに、決まってる。

憎くて、憎くて、感じるのは、憎悪だけ。

 

でも、本当に、憎悪だけ?

秋乃に対して抱くのは、憎しみの心だけ?

 

 

 

 

 

「……わ、かんないわよ…そんなの…」

「何で? 俺のこと殺したくないの?」

「…何ですぐそうやって殺せみたいなこと、言うの? アンタ頭可笑しいんじゃないの?」

 

 

 

 

 

半ば投げやりに鼻で笑う。

これが私の精一杯の抵抗。

力強く掴まれた手は小刻みに震えて、喉は焼けたように熱い。

絞り出した声と引き攣った表情はただの虚勢。

だけど、秋乃は私の言葉に眉一つ動かさずに手首を掴んだままじっと私の目を見つめてこう言った。

 

 

 

 

 

「俺がずっとそれを望んでるからに決まってんだろ。」

 

 

 

 

 

スッと圧力がなくなり、解放された手が力の支えをなくし、ベッドの上へと落ちる。

秋乃は私に背を向け、椅子の上に乗っていたフルーツが沢山盛られた籠の中からリンゴに手を触れた。

それを軽く上へと投げながらテレビ横に置かれていた果物ナイフを手に取る。

 

 

 

 

 

「ま、俺が直々にリンゴ剥いてやるから、は大人しく寝てろよ。」

「……あき、」

 

 

 

 

 

ガラ

 

 

 

 

 

言い終わらないうちに病室のドアが開き、ヒールの音が響く。

見ると、虚ろな目をしたお母さんが覚束ない足取りでゆっくりと私の方へ向かって歩いて来ていた。

 

様子が少し、変だ。

 

 

 

 

 

「……、お母さん?」

 

 

 

 

 

先ほどまで秋乃が立っていたベッド脇まで歩いてくると、お母さんの足は止まった。

ベッドに起き上がった状態で座っている私をじっと見下ろし、

 

 

 

 

 

バシッ

 

 

 

 

 

力強く頬を打った。

 

 

 

 

 

「……んのよ、……」

 

 

 

 

 

なんで?

 

どうして?

 

なにも、わかんない。

 

 

 

 

 

「…アンタ、……んの。」

 

 

 

 

 

何を、言ってるの?

 

お母さん?

 

何を、そんなに、泣きそうな顔して、

 

恨めしそうな目で、私を睨みつけてんの?

 

ねえ、何で…

 

 

 

 

 

「アンタ私に何の恨みがあるの!?」

 

 

 

 

 

両肩を掴んで揺さぶる。

視界が揺れて、お母さんの姿がブレて見えた。

何にも考えられなくて、今の状況についていけなくて。

私はただ、されるがまま。

 

 

 

 

 

「学校に行きたくないから階段からワザと落ちたって……アンタいい加減にしなさいよ!!」

 

 

 

 

 

わざと、落ちた?

 

私が?

 

学校行きたくなくて、ワザと落ちたって?

 

 

 

 

 

「ワザとなんかじゃなっ、」

「入院費どれだけ掛かると思ってんの!? 学費だけでも大変なのに、アンタどこにそんな金があると思ってんのよ!! ねえ!!」

「お母さん!! ちょっと、痛っ」

「アンタなんか、アンタなんか生まなきゃよかった!! 大した役にも立たないし、アンタなんかっ」

 

 

 

 

 

「いらないのよ!!!!」

 

 

 

 

 

涙いっぱいの目から零れ落ちる大粒の涙。

お母さんの頬を伝うそれらは私のベッドの上へと次々に落下していった。

 

私はそんなお母さんの姿を見て、泣けなかった。

ただ茫然とお母さんを見上げるだけ。

掴まれた肩の痛みとか、締め付けられた胸の痛みとか、

そんなのがいろいろとごっちゃになって頭の中が真っ白で。

 

瞬き一つできず、ただ、泣けなかった。

 

 

 

 

 

「大丈夫ですよ、落ち着いてください、お母さん。」

 

 

 

 

 

お母さんの手が私の肩から離れる。

まるで優しさ溢れる青年のような笑みでお母さんに微笑みかける秋乃。

お母さんは小さく彼の名を呼ぶと、漸くそこで私の頭が正常に働き始めた。

 

 

 

 

 

ああ、そうか。

 

またか。

 

また、私は信じてもらえなくて、

 

アイツの言葉を信じたんだ、お母さんは。

 

血の繋がった私ではなく、

 

この憎くて仕方がない、最低な男のことを。

 

アイツが吹き込んだことを全て鵜呑みにして、私の言葉ははなから耳になんて入らない。

 

そうだったんだ。

 

だからいくら否定したって、何を言ったって、聞いてくれなかったんだ。

 

金があるってだけで、実の娘の声すら届かないなんて。

 

なんて、残酷な話だろうか。

 

 

 

 

 

「入院費、全額棟田家が負担します。」

「え、そんな……悪いわよ。 秋乃君は関係ないのに。」

「関係ないなんて言わないで下さいよ。 俺とさんの仲ですし。 それに、将来の事とか考えたって、可笑しくないでしょ?」

「まあ、……嬉しい事言ってくれるじゃないの。」

 

 

 

 

 

何で、私のお母さんは、こんな人なんだろう。

 

どうして、私は何も言わないの?

 

何を言ってももう無駄だって、どこかで諦めてるのかな。

 

何を叫んだってもう、この人には何も届かないって、

 

いくら手を伸ばしたって、この人には何も見えていないんだって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当にもう、私は独りなんだって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

失うモノはもう何もないと思ってた。

 

アイツらを失って、それでもまだ何とか自分の足で立っていられたのは

 

 

 

 

 

(血の繋がったこの人がいたから、だったのに……)

 

 

 

 

 

もういない。

 

何もない。

 

本当に、何もない。

 

今度こそ本当に私の手は何も掴んでなどいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前は真っ暗で、何も見えない。

私の世界には誰も居ない。

病室の窓を叩き付ける雨の音だけが、孤独な私を呼んでいる様な気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あとがき 2008.06.15

FATHER DAY。 しかしここに父はいない。

ちょっとこのお母さん酷いね。 私がヒロインだったらとうの昔にグレてるね。

次回ちょっと山場かもしれません。 久しぶりにあの学校のあの人が出てくるよきっと、たぶん。