君が教えてくれたモノ

 

 

 

あれから何日経っただろう。

今となってはもう、時間の経過もわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校に来ても誰と話すわけでもなく、ただ一人授業を受け、昼飯を食べ、また授業。

そして帰るだけ。

家を出て帰るまで一言も口を開かない。

まるで、一人の世界だった。

 

どうしてか、先生が授業で私を当てることもなく、

誰一人クラスメートが私に話しかけることもなく、

ましてや彼ら、テニス部が私に話しかけることなんてそれこそ奇跡に近いほどあり得なかった。

 

私はあの日からテニス部と関わりを一切絶っていた。

向こうだって私を避けている。

そもそも初めからテニス部となんて全く関係がなかったので私が意識さえすれば簡単なことだった。

簡単なこと、だったんだ。

もとは全く関わりのなかった奴らばかり。

関係を絶つことなんていとも簡単で。

 

だけどぽっかり空いた穴は自分が思っているより大きかった。

 

そう、もとの生活に戻っただけなのに、失くしたモノのでかさは思いの他大きく感じる。

まるでずっと一緒だった友人を失くした様な喪失感。

 

 

 

 

 

そしてアイツ、秋乃は結局テニス部の入部が認められた。

今の時期からの入部だから、テストをして、見込みがあれば入部を許可するという話だったらしい。

監督の提案なだけあって条件は実に厳しかった。

 

跡部と試合をする、というモノ。

 

試合は4−2で跡部の勝ちのまま中断。

秋乃が突然試合を放棄したらしい。

本当ならそこで入部の話は無かった事になるのだけれど、試合を見ていた監督が許可したらしい。

どうやら秋乃の素質を自らの目で見て即戦力となりそうな秋乃が欲しくなったのだろう。

 

だけど何故秋乃が突如試合を放棄したのかは謎のまま。

 

この情報は私自身が誰からか聞いたのではなく、ただの盗み聞き。

盗み聞きって言ったら聞こえが悪いけど、詳しく言えば

次の日の朝に私の前の席で(自称)秋乃ファンが自分のことのように嬉しそうに仲間に話していたのが勝手に耳に入ってきただけ。

もう秋乃のファンクラブが出来たのか、とぼんやり考えながらふと、私は違和感に気が付いた。

 

 

 

 

 

(あれ、私……誰とも話してない。)

 

 

 

 

 

話してないことが普通だと思っていた。

普通だったんだ、今までは。

だけど、可笑しい。

 

秋乃が、私に直接何もしてこない。

 

だって、近所のお姉さんが私から離れていった時も、

幼馴染が私から離れていった時も、

嫌って程秋乃は厭味な笑みを浮かべて私のもとへとやって来ては暴言を吐いて“私は一人”だと責め続けた。

 

 

 

 

 

(それが今回は……転校初日の朝以来一度も話しかけて来ない。)

 

 

 

 

 

可笑しいと気が付いた私はふと秋乃が座る方を振り返る。

するとすぐに視界がスッと暗くなって誰か複数の体によって遮られた。

 

 

 

 

 

さん、ちょっと来てくれる?」

 

 

 

 

 

そう言って私の前の席の女の子とその仲間が私を見下ろす。

 

ああ、名前なんて呼ばれたの、いつ振りだろう。

 

そんな場違いな事を思い浮かべながら、渋々だけど小さく頷いて彼女達に続き、教室を出る。

昼休みなだけあって廊下はお昼を食べ終えた生徒達で大いに賑わっていた。

決してこれから良いことは起こらないだろう事は承知の上だったのだけれど、

何だか、自分でない他人に関わることがものすごく久しぶりな私にとって、

ただ自分がちゃんと存在していたんだという実感で、ものすごく不思議な感じがした。

 

 

 

 

 

「ねえ、私、棟田君のファンクラブなんだけど、知ってる?」

 

 

 

 

 

中庭に着くなり、そう問われる。

へえそうだったんだ初耳、と思ったので首を左右に振る。

長いこと誰とも話してなかったので自然と返答は無言でジェスチャーとなってしまった。

そんな私の態度に目の前の彼女は細い眉をピクリと釣り上がらせた。

 

 

 

 

 

「私きのう告白したんだよね。 彼に。」

「…………、」

「そしたら何て言われたか知ってる?」

「っ!」

 

 

 

 

 

ぐいっと前髪を掴まれ、力いっぱい壁に押し付けられる。

背中に痛烈な痛みを感じ、思わず顔を顰めた。

間近に見える綺麗なお顔が憎しみでくしゃりと歪む。

 

 

 

 

 

「『俺の世界にはだけで十分だからアンタは必要ない』って言われたのよ! アンタいったい棟田君の何なの!?」

 

 

 

 

 

ぐっと持ち上がる前髪。

放してほしくて必死に抵抗してみせたけど彼女の力は思いの他強かった。

 

それでも諦めずに私は彼女の華奢な肩を掴む。

そんな私の抵抗にさらに気を悪くした彼女の表情が見る見るうちに歪み、

 

 

 

 

 

「跡部様たちにも捨てられたくせに調子こいてんじゃねぇよ!」

 

 

 

 

 

そう叫んで手を上げたその時だった。

 

 

 

 

 

「おい!そこで何やってんだよ!」

 

 

 

 

 

誰かの声がしたと思ったら、周りを取り巻いていた仲間の女子達が一斉にざわつき始めた。

叩かれると思って反射的にギュッと目を瞑っていた私は恐る恐る目を開ける。

叩こうとしていた彼女も背後の声に振り返り、肩をビクつかせてその手を下ろしていた。

 

私はそんな彼女の肩越しにその声を発した人物を見る。

目が合った瞬間、私も、そして相手も目を見開き、肩を跳ね上がらせた。

 

 

 

 

 

「っ、……!」

「し、宍戸君! ちょ、これは……!!」

「ウチら何もしてないって言うか……ねえ?」

「今のはその……っていうか宍戸君どうしてこんなところに……!!」

 

 

 

 

 

ヤバイという表情を浮かべ、目をあちらこちらに泳がせる女子達を前に、

宍戸は私の名を呼んだきり、何も言わずに口を閉ざして眉間に皺を寄せていた。

何かを考え込んだように、険しい表情。

いくら彼女達が弁解しても、宍戸は黙ったままで、ましてや怒る事などしなかった。

 

いっこうに何もアクションを起こさない宍戸に対して、彼女達も不思議に思ったのだろう、

口々に言っていた弁解をやめ、目をきょとんとさせてお互い首を傾げ合っていた。

 

じゃりっ

と地面の砂をにじり踏む音がした途端、宍戸の肩は再びビクリと跳ね上がり、目を強張らせてじっと私を見た。

そして、

 

 

 

 

 

「……誰を虐めようが俺には関係ねぇけど、もっと人目のつかないところでしろよ。 気分が悪ぃ。」

 

 

 

 

 

そう言って宍戸は踵を翻し、その場を立ち去る。

そんな突然の宍戸の微妙な反応に、みんな戸惑いを隠せず、目を見合わせる。

 

 

 

 

 

ズキンズキンズキンズキン

 

頭が    胸が    痛い

 

視界が         霞む

 

 

 

 

 

……しし、ど?

 

 

 

 

 

宍戸が立ち去ったのとは違う、反対側から何やら人の気配がする。

取り巻きにいた女子達が「きゃっ」と小さく悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 

「俺にフラれたからって影でそういう事すんの、やめてくんね? コイツに手ぇ出したら、お前らの顔面ぶっ潰すぜ。」

 

 

 

 

 

低く地を這うような声が聞こえる。

振り向くとそこにはこの揉め事の元凶である秋乃。

ゆっくりと歩き出し私達が立っている場所との距離を縮め、ギロリと鋭い目を彼女達へ向けると、

彼女達は今度こそ顔を真っ青にして跡形もなく立ち去っていった。

その時、前の席の彼女の目には溢れんばかりの涙が浮かび、悔しそうに唇を噛み締めているのが立ち去り際にちらりと見えて、

彼女は決して良い事をしたとは言えないけれど何だか私自身が罪悪感を感じずにいられなかった。

 

 

 

 

 

残された私と秋乃。

だけど交わす言葉はひとつもない。

ただ、訪れるのは沈黙。

 

 

 

 

 

この空気に耐え切れなくなっていた私はどうすべきかと、

ただ混乱して冷静な判断が出来ないままの頭を必死に活動させていた。

が、そんな私を知ってか知らでか、秋乃は私に目を合わせることなく立ち去ろうとした。

背を向け、去っていくその姿。

 

どうして?

何で?

 

どうして何も言わないの?

アンタは一体、何が、したいの?

 

震える唇。

ぎゅっと握り締めた拳。

次の瞬間、何故か私は小さく口を見開いた。

 

 

 

 

 

「ねえ、どうして……何も言わないの?」

 

 

 

 

 

止まる足音。

ゆっくりと振り返った秋乃の表情は少し驚いた顔だった。

久しぶりに発した声はあまりにも小さくて、掠れていたけど、どうやら秋乃には聞こえたらしい。

 

しばらくの沈黙の後、秋乃はフッと口許を緩めて言った。

 

 

 

 

 

「今お前がテニス部レギュラー(アイツら)に何したんだって聞いてたら首絞めてるとこだった。」

 

 

 

 

 

どくん

 

 

 

 

 

波打つ鼓動。

突き刺さる言葉。

 

なのに、その表情は、まるで今すぐにでも泣き出しそうで。

言葉とは裏腹に、儚くて。

 

私は彼の内に秘められた狂気にもにた孤独さに、

息が詰まるほど時を忘れさせられた。

 

 

 

 

 

立ち去るアイツの足音が、聞こえなくなるまで私は一歩もその場から動けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「宍戸、何やったん?」

 

 

 

 

 

戻って来た俺に忍足が購買のパンをかじりながら聞く。

中庭から少し外れたベンチで昼飯を食っていた俺、忍足、向日、長太郎。

何となく会話もなくぼそぼそと各自の弁当やら購買のパンを食っていたら校舎の角の向こうから女の声がした。

みんな特に何かを話していたわけでもなかったから自然と耳を澄まして会話を聞き取ろうとしていた。

 

無意識に箸や手を止めて耳を傾ける。

だけど俺が一番角に近かったからか、微かに聞こえてきた内容がそれほど穏やかではないことに気がついた。

虐めか何かか、そう判断した途端「ちょっと見てくる。」つって立ち上がった。

 

普段の俺ならたぶん行かなかっただろう。

だけど今日は、というよりここ最近は虐めなんかに対して特に敏感になっていたんだと思う。

そして向かった先にいたのは今一番会うには気まずすぎるだった。

 

帰って来た俺の罰の悪そうな表情に真っ先に反応を示したのは向日で、

どうやら向日も会話の内容が穏やかではないことに気がついていたらしい。

 

 

 

 

 

「……もしかして女子の、修羅場…とかだった?」

「え、そうだったんですか!?」

 

 

 

 

 

長太郎が目を見開いて心配そうな表情を浮かべる。

さっきの場景と自分が発した台詞が頭に浮かんで何も言えない俺はただ強く拳を握り締めた。

 

 

 

 

 

「もしかして、相手…やったんちゃうん?」

 

 

 

 

 

俺が見せた動揺を忍足は見逃さなかった。

食べ終わったパンの袋を綺麗に畳んでビニール袋の中へ入れる。

何で捨てるゴミを畳むんだよって思ったけどそーいや忍足は変なところで几帳面だったなと無理矢理自分を納得させた。

 

それにしてもコイツ、何でこんなにも観察力が鋭いんだよいつもいつも。

 

図星でさらに何も言えなくなった俺を見て向日も長太郎も表情を曇らせる。

 

 

 

 

 

「……あの、」

 

 

 

 

 

俺がうんともすんとも返事を返さなかったからか、暫く続いた沈黙を破ったのは長太郎だった。

遠慮がちに切り出した言葉に視線は長太郎へと集まる。

 

 

 

 

 

「これでよかったんでしょうか、俺達。」

 

 

 

 

 

誰もが内に秘めていた思い。

 

そんなこと、わかるわけねぇだろ。

聞くなよ。

知らねぇよ。

答えなんて、わかんねぇ。

 

 

 

 

 

――― ……誰を虐めようが俺には関係ねぇけど、もっと人目のつかないところでしろよ。 気分が悪ぃ。

 

 

 

 

 

言うつもりはなかった。

だけど、咄嗟に出ていた言葉。

アイツを突き放す言葉。

 

終わりだと思った。

もうダメなんじゃねぇかって。

全てが終わってしまったんじゃねぇかって。

 

面倒事に巻き込まれるのが大嫌いな俺。

くだらない喧嘩や醜い争い事には出来る限り関わらず、自分から首を突っ込んだりはしなかった。

 

嫌だったんだ。

誰かが傷ついたりする姿を見るのが。

誰かを傷つけてしまうのが、怖くて。

 

 

 

 

 

俺は、ただ、逃げてた。

 

 

 

 

 

「っ今更そんなこと言ったって、もう遅いだろ。」

 

 

 

 

 

自嘲にも似た乾いた笑いを浮かべると、忍足から何とも言えない視線が返ってくる。

向日が空になった紙パックをくしゃっと握り潰して俯いた。

 

 

 

 

 

俺は、真剣に向き合わなくちゃいけない時が来たのかもしれない。

 

物事を軽視しすぎて、どんな事が起きても結局は何とかなるとか、どうにかなるとか、それほど深く考えない。

自分の事なら必死になるくせに、他人の事となるとやっぱり少し本気になれないところがあるのかもしれない。

 

俺は関係ないんだと、逃げ道を作っておくことで安心感を覚えてる。

 

逃げてばかりで、手を伸ばしてやれない。

必死にアイツが差し出してる手を、俺は掴んでやれない。

掴んでやろうという気がわかなかったワケじゃない。

ただ、俺じゃない誰かが掴むだろうと、他人任せにしていたから。

 

アイツの手を取るのは、何も一人でなくてもいいってのに。

 

 

 

 

 

「なあ宍戸ー。」

「んだよ、」

「唐揚げちょーだい。」

「……、お前、KYにも程があんだろ。」

 

 

 

 

 

開けっ放しで置いてあった俺の弁当に向日の箸が伸びる。

呆気にとられた俺が止める間もなく唐揚げに箸が突き刺さり、そのまま向日の口の中へ放り込まれる。

もぐもぐ膨れ上がった頬を動かしながら向日がじっと俺を見上げた。

 

 

 

 

 

「仕方ねえじゃん、腹減ってんだもん。 唐揚げ残してた宍戸が悪い。」

「腹減ってるってお前…今昼飯食ってる最中だろ。 てか何で俺が悪いんだよ!」

「岳人は唐揚げ好きやからなー。 そら宍戸が悪いわ。」

「はあ!? 向日が唐揚げ好きだからって…おかしいだろ!」

「……宍戸さん、早くお弁当食べちゃわないとなくなっちゃいますよ。」

 

 

 

 

 

ハッとして弁当を覗き見るともうほとんどの中味は消え去っていた。

行き先は紛れもなく向日の胃袋。

今日の弁当のほとんどが唐揚げで占められていたせいで俺のオカズはほぼ向日が完食したようだ。

 

ふざけんなよ!

だから弁当に唐揚げ入ってんの嫌なんだよ!

弁当の幅取るしよ!

 

俺が半ばヤケクソに弁当を持って長太郎の隣に胡坐を掻いて座ると、

唐揚げを頬張って残りのご飯をかっ込んでいた向日がちらりと上目遣いで俺を見た。

 

 

 

 

 

「宍戸ずっと眉間に皺、寄りすぎ。」

 

 

 

 

 

そう言って向日は口の中に入っていたモノをゴクンと飲み込み、

ペットボトルに入ったお茶をゴクゴクと飲んだ。

 

ずっとって、ずっと?

 

いつからのずっとだよ、と内心突っ込んでやりたかったけど、

たぶん向日の言う“ずっと”は、相当前からの“ずっと”なんだろう。

 

言われて意識してフッと肩の力を抜いてみると、体の底から溜め息が零れ出た。

いつからこんなにも溜め込んでいたんだろうか。

そう思うほど長くて大きな溜め息だった。

 

 

 

 

 

面倒事に巻き込まれたくない。

女の争い事はゴメンだ、なんて、

それはきっと、俺に誰かを守ってやる力がなかったから、

だからただ逃げていただけなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昼休みも終え、あとの二時間は何の記憶もなければ、受けていたはずの授業のノートも真っ白だった。

先ほどの前の席の女子はおろか、クラスメート全員が私の存在を無いものとして同じ空間で黙々と授業を聞いている。

クラスで一人浮き出ている私は、ぼんやりと窓の外を眺めていただけ。

 

グラウンドでどこかのクラスが二クラス合同でサッカーをしていて、やけに騒がしかった。

 

 

 

 

 

「ナイッシュー!」

 

 

 

 

 

笛の音と共に沸き上がる歓声。

ゴールを決めただろう選手にゼッケンを着用していない方のチームが駆け寄る。

喜んでハイタッチを交わすその選手に私は見ていたことを大いに後悔した。

 

 

 

 

 

(……鳳君、か。)

 

 

 

 

 

彼は柄にもなくフォワードの位置だったようだ。

シュートが決まってものすごく嬉しそう。

相手チームには同じくフォワードで不機嫌そうな日吉君の姿も見える。

やはりテニス部は運動が出来るからフォワードなのだろうか。

 

再び笛が鳴って試合が再開する。

これ以上彼らを見ていられなくて、今度こそ私は視線を黒板の方へと戻した。

 

視界は、歪む。

ポタリ、何も書かれていない真っ白なノートに出来た透明で小さなシミ。

 

 

 

 

 

――― マネージャーは合宿で終わったはずやで、

 

 

 

 

 

――― ……誰を虐めようが俺には関係ねぇけど、もっと人目のつかないところでしろよ。 気分が悪ぃ。

 

 

 

 

 

――― コイツを放り出せ

 

 

 

 

 

胸が張り裂けそうに苦しくて、声を押し殺して泣いた。

誰にも気付かれないように。

誰にもバレないように。

 

震える唇を噛み締める。

抱き抱えた両腕に食い込む爪の痛み。

 

 

 

 

 

“独りになる”という事がこれほどまでに辛いと感じたのは初めてだった。

苦しいと、寂しいと、助けてほしいと。

心が潰れてしまいそうになるなんて、初めてだったんだ。

 

 

 

 

 

ピッピッピー…――――

 

 

 

 

 

試合終了の合図と共に今日一日の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響く。

今日もまた、“独り”の一日が終わる。

後はそう、家へと帰るだけ。

帰るだけだったのに。

 

 

 

 

 

、少し時間はあるか?」

 

 

 

 

 

上履きから靴へと履き換えていた私を呼び止めたのは榊先生だった。

瞬時に嫌な予感が働いたけど、榊先生は私の返事を聞く前に「ついてきなさい。」と言って歩き出した。

榊先生はテニス部の顧問である前にただの(かどうかは別として)一教師だ。

もしかしたら授業のことかもしれないという僅かな期待を抱いて後に続く。

 

 

 

 

 

「入りなさい。」

 

 

 

 

 

嫌な予感はがっつり的中。

連れて来られたのはもう二度と来ることがないと思っていたテニス部の部室だった。

入れと促され、私は思わず二の足を踏む。

 

入れるワケがない。

一体何を考えているのだろうこの人は。

私達のこと、何も、知らないのだろうか。

 

 

 

 

 

「お前に小さな客が来ている。」

 

 

 

 

 

さあ と背中を押され、中へと足を踏み入れてしまう。

ちょっと何をするんだと言ってやりたかったけど、体勢を整えることに必死だった私はそれどころじゃなかった。

 

小さなお客? 私に?

 

真正面のソファーに腰掛けた誰かがゆっくりと顔を上げ、目が合った。

 

 

 

 

 

「小さいは余計ッスよ、監督さん。」

 

 

 

 

 

不機嫌そうに眉を寄せてカップをすする。

待ってもらう間にコーヒーか紅茶でも出したのだろうか。

そういえばここには部室だというのに無駄にコーヒーメーカーとかがあった気がする。

贅沢だと、いつだったかジローに愚痴った覚えがある。

 

それも今となっては何だか夢のような気がしてならないけど。

 

 

 

 

 

「……リョー、マ……?」

「久しぶり。 合宿振りだよね。」

「……なんで、ここに……」

「何でって、会いに来たんだよ、に。 約束したでしょ?」

「え?」

 

 

 

 

 

ニッと持ち上がった口許。

カップを受け皿の上へ置き、リョーマは何やら鞄の中をゴソゴソと漁り始めた。

そして何かを手にしたその時、もう一度満足そうな笑みを浮かべて私に向かってその何かを投げた。

慌てて向かってきたそれをキャッチする私。

ズッシリと重みを感じて手の中の物に視線を落とす。

 

 

 

 

 

「……これ、」

「ねえ、今が約束の時なんじゃない?」

「やく、そく?」

「そのジュース、あげるよ。 懐かしいでしょ。」

 

 

 

 

 

手の中を転がるひんやりとしたジュース。

グレープ味の炭酸飲料。

 

懐かしい?

 

普段あまり炭酸飲料を口にしない私は確かに滅多にそれを手に取ることはない。

だけど、

 

 

 

 

 

(このジュースに覚えは、ある。)

 

 

 

 

 

脳内を掠める残像。

無表情に近い表情で眉間に皺を寄せた小さな少年と、寂しそうだけど綺麗な微笑みを浮かべる少年。

 

炭酸の決め細やかな泡がシュワシュワと底から沸き上がって弾けた気がした。

 

 

 

 

 

、何を泣いているんだ。 大丈夫か?」

「!」

「これで拭きなさい。」

 

 

 

 

 

監督がポケットから何とも言えない色のハンカチを取り出してそっと私の手に握らせてくれた。

ハッとして気づく頬を伝う雫の存在。

私、泣いてるんだと自覚してしまえば止まることを知らないように涙というモノは次々と溢れ出てくる。

 

鬱陶しいったらありゃしない。

人前で泣くことは大嫌いなのに。

大嫌いなのに、止まらない。

 

私は一体どうして泣いているんだろう。

寂しいから?

独りだと思っていたのに、こうやって誰かが会いに来てくれたこと?

ここ最近ずっと触れていなかった優しさを監督が与えてくれたこと?

 

 

 

 

 

ううん、どれも違う。

 

 

 

 

 

私、失いたくないの。

もう、これ以上何も失いたくない。

傷つきたくない、何もいらない。

何も求めたりしないから。

 

だって、じゃないと、そうしないと、私はダメなんだ。

私は、立っていられなくなる。

この場所に、この世界に、いられなくなってしまう気がして。

 

独りである事よりも、独りになる事がただ、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こ わ い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…っ、ヤダっ……」

「どうした、?」

「……ヤダよ! 嫌だ!!

「おい、っ―――!!」

 

 

 

 

 

頭を抱え込んでその場にへたり込む。

手に持っていたはずの缶ジュースが音を立てて地面に滑り落ちる。

ころころと転がって茫然と私を見下ろすリョーマの足元で止まった。

 

目に一杯溜まった涙がポトポトと止め処なく溢れ落ちる。

 

 

 

 

 

怖い。

怖いんだ。

 

私、怖いの。

 

温かさを知っているから。

 

優しさも、

笑顔も、

温かな心も、

揺るぎない瞳も、

 

全部知っているから、失う事が怖いんだ。

 

 

 

 

 

―― だったらもう、何もいらない。

 

 

 

 

 

!!」

 

 

 

 

 

部室を飛び出していく私の背にリョーマが叫ぶ。

少しの間があいて続く足音。

結構足に自信があった私だったけど、さすがは現役テニス部一年レギュラー。

取り乱した私に追いつくなんて事は容易かったようで、校門前でぎゅっと腕を握って引き止められた。

 

振り返ることなく立ち止まる。

腕を軽く振って抵抗して見せるも、リョーマがそれを許してくれなかった。

 

 

 

 

 

「待ちなよ。 らしくないじゃん、どうしたわけ?」

「……っして、放してよ!! 悪いけど、私にもう関わらないで!」

「ねえ、関わらないでって、アンタ今どんな顔して言ってるかわかってんの?」

 

 

 

 

 

私の腕を掴むリョーマの手にぎゅっと力が入る。

肩越しに振り返ると、リョーマは眉間に皺を寄せ、鋭い瞳で私を睨み上げていた。

放さないと、言わずともその目が語っていた。

 

 

 

 

 

「そんな怯えた顔して、ドコに逃げるつもり?」

 

 

 

 

 

噛み締める唇が切れる。

全てを見透かされているような嫌な予感がして、咄嗟に腕を振り払ってリョーマと向かい合う。

掴まれていた腕に手を添え、私より少し小さいリョーマを見下ろした。

反対に、リョーマは目を真ん丸くさせて私を見上げる。

 

 

 

 

 

―― ああ、そっか。 そうだったね。

 

 

 

 

 

「私がどうしようもなくなった時、助けに来てくれてありがと、生意気少年。」

 

 

 

 

 

最後の力を振り絞ってぎこちなさが残る笑顔を作った私がそう言うと、リョーマはハッとした様に目を見開いた。

その一瞬で私は踵を返してその場を走って立ち去る。

 

 

 

 

 

ごめんね、ありがと。

 

だけどもう、私に関わらないで。

 

 

 

 

 

今度は追いつかれないように入り組んだ道を走り抜け、帰路に着く。

急いで飛び込むように玄関を上がり、自分の部屋へと一直線に駆け上がった。

戸を後ろ手で閉め、そのまま壁にもたれて天を仰ぐ。

 

上がった息が苦しい。

肩が上下して酸素を肺へと送り込む。

 

 

 

 

 

思い出すのは何故か、アイツらが私の名を呼ぶ温かな声だった。

 

 

 

 

 

――― ちゃーん!

 

 

 

 

 

「………っ呼ばないで、」

 

 

 

 

 

――― 

 

 

 

 

 

「……もう、呼ばないでっ、」

 

 

 

 

 

――― 先輩!

 

 

 

 

 

「呼ばないでって言ってるじゃない!!」

 

 

 

 

 

鞄を投げつけ、倒れこむようにその場に崩れ落ち、地面に手を付く。

歪んで見えない視界。

ぐちゃぐちゃになった顔を両手で覆い、声を押し殺すことなく泣いた。

 

 

 

 

 

失いたくないの。

本当は、失いたくなかったの。

 

 

 

 

 

――― ……今まで、……ありがとう、ございました。

 

 

 

 

 

それでも彼らはもう、私の傍から離れて行ってしまったんだよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じゃあ後はもう、私には失うモノなんて、何も残されてなどいないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あとがき 2008.05.30

可愛いから王子出しちゃった。てへっ。