君が教えてくれたモノ
『明日はまた、イギリスにお帰りになる日ですよ、景吾坊ちゃん。』
友達なんて呼べる奴、日本にはいない。
普段の俺は日本語より英語を耳にする方が格段と多い。
イギリスの小学校に通う俺は、たまに気分転換に日本に帰ってくる。
そこでまた、自分の居場所のなさを、実感する。
兄弟同然のように樺地が近くにいたが、それでもはっきり言ってしまえば赤の他人だ。
いくら近くにいたってアイツには俺とは違う帰る家がある。
俺とは違う、温かな環境が出迎えて待っている。
それがまた、知らずうちに俺の傷を深くした。
『あの人は?』
『お父様は先ほどイギリスの家へお帰りになられました。』
『…へえ。』
明日また俺は一人、子どもながらにして日本を経つ。
思い残すことなんてない。
また帰りたいと思えばここにだって簡単に戻ってこれる。
だけど、そんなことを俺は言っているんじゃない。
『寂しいの、ですか?』
少し目を細めて俺を見下ろすしわがれたジジイを一瞥して、俺はフッと口許を歪める。
きっと、こんな表情、普通のガキならしないだろう。
返事の代わりに年相応ではないその笑みを返し、窓の外をじっと眺めた。
『お強いのですな、景吾坊ちゃんは。 私なら、心細さで死んでしまいそうになるものを…』
寂しいものか。
物心付いた頃から既に一人だった俺が、どんな時が寂しいモノかなんてわかるはずがない。
そう思う人間は、温かみを知っているから、そのような感情を持つんだ。
手の中にあったモノを失うから、寂しいと感じるのであって、
初めから何もなかった俺が、そのような感情を抱くことはおかしな話。
そうだ、俺は強い。
俺は跡部景吾。
跡部家の息子だ。
俺はこの年で、一人で立っていられるくらい、強いんだ。
だから、無いモノを強請ったりは、しない。
『お前つまんねー男。 もっと笑えばいいのに。』
だから、俺をそんな生ぬるい世界に連れ込むな。
その掴んだ手を離せ。
その温もりを一度でも知ってしまったら、もう二度と一人では立っていけなくなりそうで。
お願いだから、俺に構うな。
お前にはお前の世界があるように、俺にだって俺の世界がある。
俺の世界はたった一人、俺だけしか存在しない、氷のように冷たい世界。
誰も入ってなど来れない、そんな世界だったはずなのに。
『あーとべっ!』
初めて人前で流した涙は、今でもはっきりと目の奥に焼きついて離れない。
「なあ、」
十分経って俺達も出発。
懐中電灯を先頭の宍戸が照らして、その隣をが歩く。
俺はその少し離れた後ろをポケットに手を突っ込んで歩いてたら、
隣を歩いてた向日が俺に話しかけてきた。
同時に俺の逆サイドにいた不二の視線も感じる。
「何?」
「……聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「別にいいけど…スリーサイズか?」
「アホ、違ぇよ。」
向日が言い難そうにちょっとだけもじもじしてたからからかってやったら
何故かものすごく呆れたような視線が返って来た。
何だソレ、俺お前の為に気つかってやったんだけど…。
「あのな、その、……棟田、だっけ? そいつの話、聞きてぇの。」
少し前を歩くの存在を気にしながら少し小声で話す向日。
どうやらもで宍戸と何か話してるみたいでこっちの話は聞こえていないみたいだった。
「で、棟田の何が聞きてぇんだよ…。」
「え、ああ…。 何か聞けば相当ヤバイ奴なんだろ? その、と関係あるみたいだし…。
立海じゃどんなだったのかな、って思って。」
「学校じゃそうだな〜…別に普通だったんじゃね? お前んとこの跡部を控えめにした感じ。」
「……え、控えめなのか?」
「跡部みたいに可笑しな言動とか、パフォーマンスとか、そんなのはなかったぜ。
ただ金持ってて女子に人気で俺様で性格悪くてカリスマ性に長けてた感じかな。」
そういえば、アイツの第一印象ってのはそう悪くなかったなと、今になって思い出す。
ちょい影がある感じの美形な兄ちゃんだと思ったくらいだ。
それが今じゃどうだろう。
最高に大嫌いな人間ワーストワンだけどな。
「たぶんお前らの存在、もうアイツに知られてるだろうな。」
「……の周りに、いるからか?」
「ん、そういう情報って伝わるのって速ぇからな。 参謀も言ってたけど、気をつけろぃ。」
向日は少しだけ顔を引き締めて「おう」と小さく頷き返した。
そんな俺達の会話を聞いていた不二からクスリと笑う声がした。
「大丈夫なんじゃない? 彼女、何だかものすごく強い相手に守られてるみたいだし。」
「……何ソレ、誰に?」
「うーん、物凄く自分勝手だけど、力強い頼りになる王子様ってところかな。」
首を傾げて考え込む向日にまたクスリと笑う不二。
ま、そのまんまってところかな。
わかんねってことは向日も相当な馬鹿だな。
チラリと視線を前方のに向けてみる。
の大きくなく小さくもない背中が、やけに切なそうに見えた。
そんな押したら倒れちまいそうな身体で、いったいどれ程のものを背負っているのだろうか。
『お前って、優しさが中途半端なんだよ…。』
いつか、ジャッカルに言われた言葉。
そうだ、俺は人のこと言えないくらい自分勝手で、残酷な人間。
可哀想だと思っても手を差し伸べないし、助けてやる事だってできない。
たとえ相手の手を掴んでいたとしても、ここぞって時に俺は手を離してしまう。
『明日が来るといいね。』
そう言って切なそうに笑ったアイツのことを思い出すたびに思い知る。
自分を何度正当化してきたことだろう。
俺はアイツの手を掴む気なんてなかったのに、ただ偽善者ぶって掴んでいただけ。
だから、本当にしっかり握ってやらなくちゃいけなかった時に、俺はその手を何の気無しに手放した。
『人間とは、愚かだな。』
あの時柳が呟いた言葉が胸に突き刺さって、今でも忘れず覚えているのはきっと、
あれが俺に向けられた言葉でもあったからなんじゃないかって思う。
それを否定しなかったのも、きっとそうだ。
俺という人間は、愚かだ。
「丸井、」
呼ばれて視線だけ向ける。
そこにはニッと歯を見せて笑う、向日の姿があった。
「俺、のこと、助けてやりたい。」
「……?、そうかよ。」
「アイツが心から笑って楽しいって、そう思える日が来るまで、
俺は…アイツの隣で力になってやるつもり。 だから、には跡部の本当の良さを知ってもらいてぇんだ。」
「……あとべ?」
跡部の、本当の良さ?
俺は首を傾げたくなる思いを抑え、疑問だけを口にした。
「跡部はあんなだけど、すっげ良い奴だし、俺は大好き。 たぶんジローや侑士だってそう。
だからそれと一緒で……その棟田って奴のことだってちゃんと知って、理解してやりたいんだよな。」
「そしたらきっと、それがアイツを救ってやれる、最短の近道だと思うんだ俺は。」
そう言って力強く笑った向日を見て、何故か俺はぎゅっと唇を噛み締めた。
俺が持っていないモノを、コイツは持っている。
俺がしなかったことを、コイツはしようとしている。
俺の肩に手が置かれ、今度は反対側を振り向く。
そこには優しく微笑む不二がいた。
「人、それぞれだよ。」
「…あ? 何が?」
「うん、だから、やり方なんて人それぞれ。 向日は向日のやり方があって、僕には僕のやり方がある。
丸井君は丸井君のやり方があって、跡部には跡部のやり方があるんだよ。」
全部は言わないけど、わかるよね? と言った不二に、俺は何も返事を返さなかった。
…コイツ、慰めて、くれてるわけ?
まさかな。
俺の考えてることなんてわかるわけないし、偶然だろぃ。
そう思っても、何故かその言葉が嬉しくて、少し救われた気がした。
だから聞こえないくらいの小さな声で「サンキュ」って言ったら、
「どういたしまして。」と返ってきて驚いた。
「大丈夫か? しんどくなったら言えよ。 まだ本調子じゃねぇんだから。」
「え、あ、うん。 ありがと。」
隣を歩く宍戸が懐中電灯で足元を照らしながら忘れ去られていた私の体調を気遣ってくれる。
そうだよ、私病人だったんだ。
私本人が忘れてちゃ話になんないわよね。
「…気にすんな。」
「え?」
「向日の言ってたことだよ。 アイツは、お節介な奴だからな。」
しょうがねぇ奴なんだよ、と宍戸が笑う。
何だ、さっきの話聞かれてたのか。
私は頷いて視線を落とした。
「ああ見えて向日は、誰よりも敏感に相手の微妙な気持ちっつーか、
心の奥底にある蟠りみたいなのを無意識に感じ取っちまうんだ。
それを持ち前の明るさだけでどうにかしようっていうから失敗するんだけどよ…」
「…ああ、何となくわかるそれ。 当たって砕けるタイプよね。」
「まあな。 だから跡部のことも、誰よりも先に気がついてた。」
懐かしむように目を細める。
跡部のこと?
跡部のことって、何よ。
疑問に思っても訊けない。
訊いてしまうと、いけない気がした。
それに私が跡部のこと訊いたってどうしようもないじゃない。
なんて無意識に眉間に皺を寄せて考えていたら、宍戸が懐中電灯で私の顔面をピンポイントで照らしてきた。
「なっにするかなテメェ! ちょ、目! 目開けらんないから!」
「んな難しい顔すんなって。 お前はそうやってキャンキャン吠えてる方が似合ってっぞ。」
「似合ってたまるもんか!」
ハハハと笑って懐中電灯を足元に戻す。
クソッ、目がチカチカする!
見えなくなったらどうしてくれよう!
「跡部っていつもはあんなだけど、アイツはアイツなりに苦労っつーか、
人より倍辛い目にあってんだよ。 金持ちっつーのも楽じゃねえんだって。」
「………、」
「だから出会った頃の跡部は俺達に対して、周りの人間に対して冷たかった。
まぁ冷たいって言うよりは、自分と自分以外の人間って目で見てた。 跡部の世界には跡部しか存在してねえんだとよ。」
訊いてもないのに跡部の話が宍戸の口から勝手に語られる。
黙って聞いていると、宍戸がこっちを向いた。
「そんな跡部にいち早く気付いて手を掴んだのが、向日だったわけ。」
『今日の部活はこれにて終了、解散!』
『お疲れ様でしたー!』
一年部長の跡部の合図で部活は終わる。
ぞろぞろと部室に帰って行く部員の中で一人、監督と話し終えた跡部に近付く影があった。
それが向日岳人だった。
『なあなあ跡部! 今日この後暇!?』
『ああん?』
『せっかく同じ部活入ったんだし一年だけで集まって飯食いに行こうって話になってんだけどお前も来いよ!』
厳しい部活の後だというのにニコニコと笑顔を浮かべている向日に跡部の眉間の皺が深く刻まれる。
『行かねぇよ。 俺様はお前達と違ってこの後家に帰ったら引き続き自主練があるんだよ。』
ふんと鼻を鳴らして背を向ける。
嫌味な奴だとは前々から思っていたが、まさかここまでだと思っていなかった向日はポカンと口を開けて突っ立っていた。
しかしすぐにハッとして、立ち去ろうとしている跡部の腕を掴んだ。
『お前つまんねー男。 もっと笑えばいいのに。』
『ああ? 何だテメェ、まだ何か用か?』
『そんなんじゃ誰もお前になんてついていかねぇぞ。
部長たるもの全国目指すなら部員とのコミュニケーションも大事だろ!
んなカタイこと言ってないで一日くらいいいだろ別に、行くぞ!』
『な、ちょ、離しやがれ!』
『いざ焼肉焼肉焼きほうだーい!』
ガハハハハと高らかに笑う向日と、
目を見開いて驚き怒鳴る跡部の姿がそこにはあった。
「向日は向日なりに、お前のこと気にかけてんだ。 それだけは、わかってやってくれな。」
「宍戸…、」
頭を押さえるようにポンポンと叩かれる。
宍戸の話を聞いて、ちょっとキュンとなってた私は、その衝撃で思わず涙が零れそうになった。
わかってる。
わかってるよ宍戸。
わかってるんだ、本当は。
みんなが悪い奴じゃないことくらい。
跡部景吾だって、ホントはとっても素敵な人間だってことくらい。
わかってる。
ただそう思うことができないだけ。
大切な仲間だと、言えないだけ。
言ってしまえば、それを失うことになるから。
手に入れた瞬間に、全てを失うことになるから。
嫌いだと、そう思うことは私にとっての予防線。
決め付けることで、それ以上でもそれ以下でもない関係を保つことができる。
一線を踏み外すことは、失うことと同じ。
得たモノは、同時に失ってしまうモノ。
怖いんだよ。
一人になることが。
寂しいと、そんな感情を抱くことが。
アイツの影がチラつく度に、私は恐怖に怯えながら生きている。
「?、?」
一筋だけ流した涙に気づいた宍戸が、少しだけ躊躇って何も言わずに服の裾で拭ってくれた。
…結構乱暴だったけど。
痛いっつーの。
どうせならもっとソフトに優しくしろ。
だけどたぶんこれは彼なりの気遣いなんだろう。
何も言わなかったのは、後ろのみんなに気づかれないようにする為。
普段の彼ならきっと驚き余ってオーバーリアクションものだ。
私が小さく「ごめん、ありがと。」と呟くと、
宍戸は屈託の無い彼らしい笑みを浮かべ、
「どーいたしまして!」
と眩しすぎるくらい素直な返事が返ってきた。
『、五歳です。 将来の夢は玉の輿に乗ること。 今一番欲しいモノは…』
『底を尽きないくらいのお金です!』
あの頃は子どもらしいこと言えなかったけど、
少しずつ、少しずつ、たくさんの人とたくさんの事を経験してきた今ならきっと言える。
『、十五歳。 将来の夢は玉の輿に乗ること。 今一番欲しいモノは…』
『どんなことがあっても失うことのない仲間です。』
そう胸張って言える日は、あとどれくらい先の未来だろうか。
__________________________________________
あとがき 2008.03.13
肝試し、次回が本番です^^