君が教えてくれたモノ

 

 

 

 

いつだったか、助けを求めて来たアイツの手を振り払った。

いつも心が不安定なのは、私も同じなのかもしれない。

 

 

 

 

 

『アンタ名前は?』

『……。』

『ふーんね。 俺アンタが気に入ったんだ。 俺のものになれよ。』

 

 

 

それは本当に突然のことだった。

そう言って差し出された手を、見ていることしか私にはできなかった。

 

 

 

『俺、超金持ちなんだよね。 お前がこの手を取ったら、さぞかしお前の母親は喜ぶだろうな。』

『何、それ…馬鹿じゃないの?』

『馬鹿は、の方だ。 この手を取ればお前はもう将来の心配も何もしなくていいんだぜ? それなのに何故とらない。』

『何アンタ、馬鹿にしないでよ!』

 

 

 

差し出された手を、容赦なく私は振り払った。

母親のことを言われて頭に血が上ったのかもしれない。

いや、それよりも、当時の家庭環境の悪さで生気を失っていたからかもしれない。

アイツと私が出会ったのは、耐え切れなくなった父が母と私を捨てて家を出て行った、次の日の放課後だった。

 

 

 

『……ふーん、アンタ、気が強いんだな。 その威勢がいつまでもつのか、楽しみだぜ。』

『なっ、何言って……』

『よろしく。 できるだけ潰れてくれるなよ。 俺の最後のより所なんだから。』

 

 

 

そう言ったアイツの顔が、今も忘れられない。

ムカついて、ものすごく嫌悪感が漂った奴だったのに、

その一瞬の表情だけが、妙に歪んで、物悲しそうだったから。

アイツのあんな顔を見たのは、たぶんこの時が最初で最後だった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「………うん、わかった。」

 

 

 

私が絞り出すような声でそう言うと、仁王雅治の眉がピクリと跳ね上がった。

私の首を絞めていた手からゆっくりと力が抜けていく。

息がしやすくなったところで私は咽返るような咳を数回繰り返した。

 

 

 

「何が、わかったって……?」

 

 

 

大分呼吸が楽になってきてフッと仁王雅治に視線を向けると、彼は罰が悪そうな表情でどこか遠くを眺めていた。

もう一度軽く咳き込み、身体を起き上がらせる。

仁王雅治は私の太腿辺りに跨ったままなので、身体だけがこちらに向いていて、向かい合うような形になった。

 

 

 

「つまりそれは…もう私に何もしてこないって、そういうことでしょ?」

 

 

 

私がそう言うと、仁王雅治が一瞬目を見開いて、俯いた。

 

アイツが仁王雅治に関わるなと言ったこと。

つまりはもう私に何かしてくる理由がなくなったということだ。

 

仁王雅治は少し躊躇ったあと、私のすぐ横のベッドに手を付いて中腰を上げ、私にそっと手を伸ばした。

彼の生ぬるいような温かいような、よくわからない温度の手が私の頬にそっと触れる。

 

 

 

「……すまんかった。」

「なにが?」

「頬、叩いたじゃろ? あれ、結構力入っとったきに。 女にすることじゃなかったな、すまんかった。」

「………大丈夫。 切原赤也みたいに腫れてもないし、赤くなったの一瞬だったし。」

 

 

 

笑ってそう言うと、安心したように仁王雅治もフッと口許を緩めて笑った。

同時にギシッとベッドが軋む音がする。

ハッとして顔を上げると、一瞬仁王雅治の顔が目の前にあってドキッとしたけど、

すぐに彼は私の肩に顔を埋めて力尽きたように私にもたれかかってきた。

 

 

 

「……あの、大丈夫? 息上がってない?」

「ちょっと、しばらくこのままで…おってくれたら、大丈夫。 すまんの、すぐ…動く。」

「私は大丈夫だけど、無理しないでよ。 アンタ結構熱すごかったんだから。」

「…………、」

 

 

 

本当に息苦しそうにしてるから思わず背中をポンポンと撫でてやる。

抱きかかえるような形になっちゃったけど、何だかどうしようもない子どもを持った母親の気持ちになった。

身体、すっごい熱いし、こりゃ相当無理してここまで来たんだな。

そうまでして私に謝りに来るなんて、コイツもちゃんと根性据わってんじゃん。

 

 

 

「……昨日のことも、まだ謝ってなかった。 すまんの。」

「はは、もういいよ。 大したことにならなかったし。 それに怪我もなかったし。」

「俺の怪我、気づいとったんは意外じゃったの。 参謀すら、まだ気づいとらんかったんに。」

「だってアンタ変に足庇ってたから、動き微妙に変だったよ。 なんて言うか…キモかった?

「……言うのう。」

 

 

 

ククッと笑った仁王雅治から肩越しに私の身体に振動が伝わる。

何だかこそばかったけど、それが妙に心地よかった。

きっと、もうコイツから私に対する敵対心みたいなものが消えたからだろうか。

さっきまで張っていた変な緊張感みたいなものがいつの間にか消え去っていた。

 

 

 

「俺、アイツの為に何かしてやりたい思っとったんは嘘じゃなか。」

「……うん、」

「アイツの為にしたこと、間違っとらん思とる。 でも、それとは反対に、お前さんにしたことは…悪いと思とる。

言ってること矛盾しとるけど、それがホントの俺の気持ちなんよ。 わかって、ほしい。」

「……そっか、なら、それでいいんじゃない?」

「………おう。」

 

 

 

ギシッとベッドが鳴って、私は再び体をベッドに倒した。

それと共に仁王雅治も私に覆いかぶさるように倒れてくる。

もう結構な体つきをした男をいつまでも支えておけるほど私は力強くない。

仁王雅治も本当は自分の力で起き上がりたいんだろうけど、熱に侵された身体はそう言うことを聞いてはくれない。

重力に逆らえずそのまま私の上に乗っかってぐったりと倒れ込んでいた。

 

 

 

「約束、してやる。」

「ん? 何を?」

「もしこの先、何か力になれることがあるのなら、俺を頼ってきんしゃい。」

「仁王雅治に…?」

「今度は、お前さんの力になってやるきに。 いつか俺を頼る日が来たら、いつだって俺が力になってやる。」

 

 

 

ちらっと視線を横にずらして目が合うと、仁王雅治がニヤっと力なく笑った。

何か妙に気恥ずかしくなってぶっきら棒に「ありがと」と言うと、仁王雅治はお詫びだとだけ言った。

 

 

 

「それにしても仁王雅治、アンタいいガタイしてるね。」

「触るな、セクハラか。」

「今のこの体勢からしたらアンタの方がセクハラだよ。 誰か来たら張り倒されるよ。 特にアンタん所の副部長さんとか。」

「怖いこと言うのう。 否定はせんけど。」

 

 

 

力なく笑って、仁王雅治はゆっくりと目を閉じる。

そしてそのまましばらくすると、スースーと規則のいい寝息が聞こえてきた。

 

っておい!

乙女の上で、しかもこんな時に寝るのかよ!

せめてちょっと横にずれてから寝てくれてもよかったのに!!

 

 

 

「……冗談、キツイよ…」

 

 

 

私は気持ちよさそうに眠る仁王雅治を恨めしそうに見つめて、

それから自分もゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

『あ、』

 

 

 

コンビニの入り口で驚いた表情を浮かべて立っている見覚えのある少女。

俺は買ったばかりの四本のビニール傘を片手に、そんな彼女を見て立ち止まる。

やはり俺だと確信を持った彼女は、不思議そうな面持ちで俺の元へと歩み寄った。

 

俺の記憶が正しければ確か雨が降っていた。

その日は東京の学校と練習試合があって、その帰りだった。

だいたい俺はいつも傘を鞄の中に常備しているが、

その日は夕方くらいから雨が降ると天気予報でも言っていたので大きい傘を持って行った覚えがある。

そしてやはり試合終了と共に雨が降り、当然傘を持ってきてなかっただろう赤也やブン太などが

傘を持っている俺に近くのコンビニまでビニール傘を買って来てくれと頼んだ。

いつもなら知らんの一言で終わらせるのだが、この日は何故か俺は素直にパシられることにした。

今思えば、どうしてそんなことになったのだろうかと、甚だ疑問でしかたがない。

 

 

 

『蓮…二だったっけ?』

『ああ、覚えていたんだな。 久方ぶりだな、。』

『うん久しぶり。 会うのは二度目だね。』

『住む所が違うからな。 この辺が家なのか?』

『そうだよ。 すぐそこなんだ。』

 

 

 

まだ二度目の再開だというのに、それを感じさせない彼女との普通の会話。

彼女の名は、

あの日、河原でいかにも死にそうな表情を浮かべていた少女だ。

あれからもう少しの時が経ってしまったが、

俺達のマネージャーだった少女と同じ立場に立たされた、哀れな被害者でもある。

 

 

 

『お前は今、棟田と会って来た帰りってところか?』

 

 

 

俺が躊躇いもなしにそう言うと、の身体がビクリと跳ね上がった。

何故知っている、そう言いたげな視線を俺へと向ける。

不安に満ちたその大きな瞳が、その恐怖心を露にしていた。

 

 

 

『俺はデータ収集が趣味でな。 お前のことはあの日から少し調べさせてもらってる。

 棟田とは知り合い、と言っていい範囲なのかはわからないが学校も同じだし面識はある。』

『………どうして、私がアイツの家に行ってきたって…わかんのよ。』

 

 

 

先ほどとは違った震える声で俺を見上げる。

さっきコンビニに入って来た時の表情を見ればすぐにわかるというのに。

 

俺はフッと笑うと、彼女の隣を通り過ぎようと足を踏み出す。

擦れ違う間際、の眉間をトンと中指の背で叩き、

 

 

 

『ずっと、眉間に皺が寄ってるぞ。 気をつけた方がいい。』

 

 

 

それだけを告げ、俺に背を向ける形で立ち尽くしたままの彼女を置いてコンビニから出て行った。

自動ドアが開き、そのすぐ横に置いてある傘立てから自分の傘を探す。

 

 

 

『……参ったな。 やはり盗られたか。』

 

 

 

仕方なくジャッカルの分として買ったビニール傘を差して俺は仲間の元へと戻った。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「なあ、蓮二。」

 

 

 

ハッとして振り向くと、そこにはいつもと変わらない笑みを浮かべた精市の姿。

俺は今練習中だったことに気づき、迂闊にも上の空だったことに自責の念に駆られた。

しかし精市はそんな俺に気づいていてか、そこに突っ込む気はないらしく、ただ俺の名前を呼んで俺の隣に立った。

だから俺も普段どおり、何ともない冷静な対処を心がけ、平常心を保ったまま何だと返事を返した。

 

 

 

さんと、知り合いだったんだな。」

「ああ、まあな。 それをわざわざ練習中に訊きに来たのか。」

「だって上の空だったから、練習してるわけじゃないし別にいいかなと思って。

「………すまない、少し俺にも考えるところがあったようだ。」

 

 

 

墓穴を掘ったなと思いながらも、精市にそこを責める気はないらしく、別にいいよと言って笑った。

目の前では青学の河村と不二、そして氷帝の宍戸とうちの柳生がダブルス対決をしていた。

何だこの組み合わせはと思うが、まあどうでもいいか。 俺にはあまり関係がない。

 

 

 

「立海テニス部、どうなるんだろうな。」

「大丈夫だろう。 過去のことをとやかく言う奴はここにはいない。 問題はあの男だけだ。」

「ああ、棟田をどうすべきか、そこが問題だな。 さんには、悪いことをしたと思ってる。」

「………結局は俺達が自分のテニス部を守るために彼女を犠牲にしたという形になるんだからな。」

「わかってたんだ、初めから。 これをしちゃったらもう後には戻れないんじゃないかってこと。

 でも、俺にとってテニスは命の次に大事な物だから、守りたかった。」

 

 

 

自分を笑っているかのように小さく笑みを浮かべた精市の横顔は、少し物悲しかった。

テニスが大事だと思うのは俺だって同じだ。

いや、俺だけじゃない、ここにいるみんなが同じ考えだと思う。

だけど、それを犠牲にするか、彼女を犠牲にするか、天秤をかけて俺達立海は彼女を犠牲にした。

ただそれだけのことだ。 しかし、良い事ではもちろんない。

 

 

 

「少し、みんなを泳がせ過ぎた。 反省してる。」

「御影は俺達がどうにかしなくてはいけない立場だった。 それを俺達は止めるどころか煽ったからな。」

「本当、俺は部長の立場じゃないな。 まあ俺達の先輩も先輩だったけど。」

 

 

 

俺達の上の先輩はテニスは強かったが、人間としては最悪だった。

精市はそれをわかっていて、なおかつ自分も同じ道を歩もうとした。

が、違う。

あの人たちと決定的に違うところがある。

 

 

 

「精市は…テニスが本当に好きなんだな。」

「え?」

「正しいとは言わない。 だが、今日までのこと全てを否定できるわけでもあるまい。」

「蓮二……、」

 

 

 

精市は自分の為だけでなく、みんなの為に、テニス部を守りたかった。

失うにはあまりにもでかすぎる、テニスというものを、

他人が残した罪を一人で背負おうとしていた。

それを助けてやれなかった、俺にも責任はある。

精市はそこまで落ちぶれてしまったわけでもなければ、ある意味コイツも被害者なんだろう。

 

 

 

「お前は自分がした事を悪い事だと分っていた。 そこは先輩と決定的に違っている。」

「…そうかな。 うん、でもそう言ってもらえて少しは楽になるよ、ありがとう。」

「謝れば、まだ間に合うところに俺達はいる。」

「……ああ、わかってる。」

「それに俺からしてみれば、精市が部長で良かったと、そう思っているんだけれどな。」

 

 

 

それだけを伝えて、ベンチに置いたままだったラケットを握って歩き出した。

さあ、貞治でも誘って一試合でもしてくるか。

この様子だと、また一雨来そうだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「あーとべっ!!

 

 

 

廊下で、前方に大きな背中が見えたから迷いもなく飛びついて行く。

そりゃもうタックルする勢いで、目的人物に近付いてもスピードを緩めることなくその背中に飛びついた。

 

 

 

「テメッ、ジローぶっ殺すぞ!!」

「ぶぅー何でそんな怒るんだよ〜。 ちょっと飛びついただけじゃんか。」

「そのせいで廊下が見るも無惨な姿になったんだがな!」

「あちゃーダメじゃん跡部。 しっかり握ってなきゃ。」

「お前、埃一つ残さず隅々まで片付けろ!!!」

 

 

 

跡部の前方は何やらお粥みたいなのが気持ち悪いくらい飛び散ってしまっていた。

それを見て駆けつけた宿舎のおばさんが、片付けておくから新しいお粥が出来上がるまで食堂で待っててと言って

慌てて雑巾を取りに食堂へ戻っていった。

跡部は舌打ちを鳴らし、俺をギロリと睨みつける。

俺はその威圧感に肩を竦めながら、ちょっとしおらしく上目遣いで跡部を見上げた。

 

 

 

「このお粥、ちゃんに?」

「それ以外に誰が食うっつーんだ。 こんな味も何もない飯なんか。」

「病人食だもんねー仕方ないよ。 でも跡部が持って行くなんて、やっぱり跡部ちゃんのことどうでもよくないんじゃん。」

 

 

 

へへっと笑いながら俺も跡部について、二人して食堂へと戻る廊下を歩く。

 

 

 

「似てるでしょ、昔の跡部とちゃん。」

「ああ?」

「俺と初めて会った時の跡部の目と、今のちゃんの目、そっくりだよね。」

「………、」

 

 

 

俺がニッと笑ってそう言うと、跡部は何も言わずに黙り込んだ。

そして何か考えるような素振りを見せてから、フッと口許を緩めて笑ってこう言った。

 

 

 

「俺はあんな貧乏臭い目はしてなかった。」

 

 

 

馬鹿にしたような、だけど何処か自分を懐かしむような。

そんな跡部の顔を横目で見つめながら、俺もフッと口許に笑みを浮かべた。

 

 

 

「アハハハ、決定的な違いは跡部は金持ちでちゃんは貧乏ってところだよね。 それじゃやっぱり似ても似つかないか。」

「当たり前だ。 あんな女と一緒にしてくれるな。 俺様の品が下がるだろ。

「………でも跡部は、そんなちゃんを助けてあげるんでしょ?」

 

 

 

俺がニッと笑って跡部を見つめると、跡部は少し眉間に皺を刻んだあと、

スッと俺から視線を逸らして食堂のドアを開けた。

もうみんな昼からの練習へ向かったんだろう、そこに部員の姿はなかった。

 

 

 

「アイツが俺に向ける怯えた目を見て、俺にとってのお前らのように、

 アイツにとっての俺になってやろうと、そう思った。」

 

 

 

それだけだ、そう言って跡部は食堂の奥へと入っていく。

 

ハッとして、俺も慌ててその後を追って食堂の中へと足を踏み入れた。

跡部がまさかそこまで言ってくれるとは思ってなかった俺は、どうせまた鼻で笑ってあしらわれるだろうとそう思っていた。

明らかに今、予想外の告白に、吃驚させられた。

 

 

 

「ねえ跡部跡部! 跡部にとっての俺ってどんなのー!」

「うるせえ。 死ね。」

 

 

 

食堂のおばさんがクスクス笑いながら新しいお粥をトレイに乗せて跡部に渡す。

そして何故か俺にもトレイを渡された。

 

 

 

「もう一人病人の子がいたでしょう? 貴方はその子に持って行ってあげてちょうだい。」

「え?」

「ほら、銀色の髪の男の子。 あの子に持って行ってあげて。」

 

 

 

ああ、仁王君かな?

俺はきょとんとしてそのトレイを受け取ると、もう食堂から出ようとしている跡部を慌てて追った。

その走った拍子にちょっとお粥が零れちゃったけどまあいいや。 だって仁王君のでしょ?

 

 

 

「待ってよ跡部〜!」

「お前は仁王の部屋だろ。 ついて来んな。」

「途中まで一緒の方向じゃんか! それに仁王の部屋行くまでにちゃんの部屋の前通るもんね!」

「そりゃよかったじゃねえか。 じゃあな。」

「ひどっ、跡部の馬鹿ー!」

 

 

 

俺が一人でグチグチ言いながら跡部はそれを最後まで無視し続け、

いつの間にかちゃんの部屋の前まで来ていた。

跡部がトレイを片手に持ち替えてノックするが、返事がない。

寝てるのかなって思ってたら跡部がドアノブを捻って開けた。

 

 

 

「ありゃ…」

 

 

 

ドアが開いて、部屋の中を覗くと、それは思っても見ない光景が広がっていた。

これには跡部も驚いたのか、目を見開いて固まっている。

俺も、ちょっとドキってした。

 

まさか、仁王がちゃんの上に乗っかってるなんて…

これってどういうこと?

 

 

 

「二人とも寝てる…みたいだね。 跡部、どうする?」

「どうするも何も…」

 

 

 

俺達が部屋に入ってきても起き上がらないし、ピクリとも動かない二人からは規則的な寝息が聞こえてくる。

まさかとは思うけど…まさかだよね。

昨日今日でまさかまさか、だよね。

 

俺がそんなことを考えてるうちに、跡部はお粥の乗ったトレイを無理矢理俺に渡してズカズカと部屋の奥へと入っていく。

そしてあろうことか、近くにあったティッシュ箱を手に取り、

 

 

 

「起きやがれこの貧乏女!!」

 

 

 

そのまま寝ている二人の頭をバシバシとシバき起こした。

すごい形相の跡部が手に持っているティッシュ箱は次の瞬間、もう元の原型を留めてはいなかった。

どれだけきつく叩いたのかなってくらい、すばらC音が鳴り響いたけど…。

 

相当痛かったんだろう、二人ともむくっと起き上がって頭を押さえてた。

ちゃんの方がきつかったんだろうな、声が出てなかった。

 

 

 

「テメ今何つった! 貧乏っつったなこの坊ちゃんめが!!」

「人が昼飯持ってきてやったのに何仁王と仲良さ気に暢気に寝てんだこの馬鹿が!」

「何でって……何でだっけ仁王雅治?」

「さあ、覚えとらんのう。」

 

 

 

ちゃんは本気で寝惚けているんだろう。

眉間に皺を寄せて本気で考えているみたいだけど、仁王君の方はそれを見てちょっと笑ってた。

絶対覚えてんじゃん。

跡部もそれに気づいてるんだろう、さっきよりもすごい顔をして仁王をギロリと睨みつけていた。

 

 

 

「つーか、すんごい頭ガンガンするぅ〜…」

「そりゃ有りっ丈の力を込めてやったからな。」

「女起こすのに暴力はいかんぜよ。 それに俺も病人じゃ、もうちと優しく起こせんのか。」

「その病人が何女の上で暢気に寝そべってんだ、絞め殺すぞ。

「おお怖。」

 

 

 

仁王は肩を竦めて笑う。

その仁王の笑みに何だか俺もホッとして、両手に持ったままだったトレイを近くの机に置いた。

そこで漸くちゃんも俺の存在に気づいたのか、驚いた顔をして「ジロー」と俺の名前を呼んだ。

 

 

 

ちゃん調子はどう?」

「うん、まあまあかな。 ちょいダルイけど動けないこともないし。」

「そっかよかった。 ついでだから訊いてあげる、仁王君は?」

「………お前さん可愛い顔してキッツいこと言いよるのう。」

 

 

 

口を尖らせてちゃんのベッドから足を出して座る仁王。

一応ちゃんをこんな目に合わせた奴だから優しくなんて接してあげない。

ちゃんの様子を見てると、もう仁王に敵対心は持ってないみたいだけど…

昨日の今日だしちょっと心配だ。

ちゃん単純なところあるから騙されやすそうだし。

 

 

 

「お粥持ってきたから、食べた方が治り早いよ。」

「ありがとう、いただくけどとりあえずこの男をどっかやってくれない?

「ああ、んだと?」

「そんな目して睨まれてちゃ食えるご飯も食べれません。 飯がまずくなる。」

 

 

 

ちゃんが嫌そうな視線を跡部に向けながら俺が差し出したお粥のトレイを受け取る。

それに反応して跡部の眉間にも皺が刻まれた。

 

 

 

「つーか仁王、お前自分の部屋戻れ。 こんなところで何してやがった。」

「さあ、ナニしとったんかのう。」

「ふざけんなよ、病人のくせしやがって、大人しく寝てられねえのか。」

「思春期やし、動き回りたいお年頃なんよ。」

「だからお前は病人だろうが! とっとと部屋帰れ! 真田呼ぶぞ!」

「へいへい。 そうカッカしなさんなって。 血圧上がるぜよ。」

「余計なお世話だ!」

 

 

 

仁王は跡部の睨む視線にもお構い無しの様子でさっさとベッドから飛び降り、

そして少しふらふらしながらも一度も振り返らずに部屋を出て行った。

 

ああ、お粥……

まあいいか、もともと俺は仁王の部屋に運んであげなくちゃいけなかったんだし。

あとで持ってってあげよ。 はっきり言って面倒だけど。

 

仁王の姿が見えなくなったと同時に跡部から少し息が漏れる。

 

 

 

「ほら、さっさと食え。」

ぶあっち! 何すんの人が熱冷ましてる時に! 火傷した!」

「よかったな。」

「良くないに決まってんでしょ! 謝れ!」

 

 

 

ちゃんがちょうどレンゲで掬ったお粥に息を吹きかけてるところを跡部が容赦なく

ちゃんの手を握って口に無理矢理運ばせ、二人はまた言い争いを始めた。

これだけの元気があったらもう大丈夫かな。 うん、良かった。

 

ちょっとだけ、昨夜の柳の言葉を思い出す。

 

 

 

『アイツ、は最も今死に近い場所にいる。』

 

 

『あの目を見ている限りいつ死のうとしてもおかしくない、精神的にももう限界を感じているはずだ。』

 

 

 

たぶんそれは間違ってない。

ちゃんは意識的か無意識かはわからないけど、常に頭の中で死を思い描いている。

きっと何かある度に、死を連想させている。 いつだって死と隣り合わせ。

 

だけどね、今、その心配はないと俺は思うよ柳。

 

ちゃんに少しでも笑える力があるのなら、

少しでも助けて欲しいという思いがあるのなら、その心配はないと思う。

 

 

 

(だって、ちゃんの傍にはこんなにも頼もしい助っ人がいるんだから。)

 

 

 

彼女が助けて欲しいと声に出して、

少しでも手を伸ばせば、その手を取ってくれる誰かがいる。

 

俺はあの時、あの子の手を取ってあげれなかったけど、

あの子は誰にもその手を取ってはもらえなかったけど、

 

 

 

『ねえねえジローちゃん』

『んー…ナーニー?』

 

 

 

 

 

『私、自由が欲しい。』

 

 

 

 

 

あの時見上げた空は、今日の空に少し似ていた。

 

 

 

 

 

2008.02.20 執筆 2009.03.03 加筆修正