君が教えてくれたモノ
それは、小学二年生の頃のキミと僕。
「お前は神経質すぎるんだよ気持ち悪ぃな!!」
アイツに叩かれた頬が痛い。
あームカつく。
何なんだよ一体。
そんなことを考えながら公園をゆっくりとのんびりしたペースで歩く。
当時、僕は驚くほどの神経質な人間で、親もびっくりするぐらいませたガキだった。
それをアイツは気に入らないらしく、いつも僕のことを罵っては虐めていた。
「気持ち悪いって…お前がだろ。」
さっきのことを思い出して独り言のように呟く。
ポケットから小さな財布を取り出して自販機の前に立った。
何を飲もう。
紅茶でも飲んでこの苛々を一刻も早く落ち着かせよう。
そうして僕は一番指の届きやすい高さにあった冷たいミルクティーのボタンを押した。
ほぼ同時にミルクティーの缶がゴロンと落ちてくる。
僕はそれを取り出し口から拾うと、財布の口を開けたままだったことを忘れてしまい、
そのまま財布をポケットへとしまった。
途端に辺りに散らばるお金を慌てて拾い集める。
………最悪だ。
「あ、一円が……届かない。」
たぶんこれで全部だろう、散らばったお金を拾い集め、
一応念のため自販機の下を覗き込むと、そこには一円玉があともう少しの距離だけど
頑張らなきゃ届かない距離に落ちていた。
これ以上手を伸ばすと地面に髪が付くか服の裾が汚れちゃう。
そう咄嗟に考えた僕はその一円を拾うのを諦めて、
近くのベンチに座ろうと自販機に背を向けたその時だった。
「………なに、してるんだい?」
ゴソゴソと動く人の気配を感じて振り返ると、
そこにはさっきの僕と同じように自販機の下に手を突っ込む女の子の姿があった。
そしてその隣には帽子を深く被った小さな男の子が女の子を見下ろしていた。
ま、まさか今の一円を拾おうとしてるわけじゃ…ないよね。
僕の質問は全く聞いてないみたいだけど、まあいっか。
女の子は僕よりずっと低い体勢で必死に腕を伸ばしている。
形相も物凄いもので、見ていてちょっと尊敬した。
そこまでやるか、って。
しばらく黙って見ていると、やっと取れたのか、嬉しそうな笑みを浮かべて女の子は立ち上がった。
「ちょっとそこの君! 一円を笑う者は一円に泣く破目になりますよ!」
「……まあ、よく聞く言葉だよね。 でも汚れるの嫌だったからしょうがないじゃん。」
「しょうがなくないよ! この一円でどれだけ人が助かると思ってんの!
汚れなんて気にしてんじゃないよ男の子が! はい、一円。」
ちょっと泥が付いた腕が僕に向かって伸びてきて、その先の手に握られた一円玉が差し出される。
「いいよ、君がせっかく取ったんだからそれはもう君にあげるよ。 取ってくれたお礼。」
「え、いいの!? 一円だよ!? 貰っちゃうよ!?」
「……一円でよければどうぞ。 わざわざ取ってくれてありがとう。」
いちいち一円のために財布を開けてしまうのも面倒だったので、
何の気なしにその一円をあげると言うと、その子は目を輝かせて喜んだ。
それだけ喜んでもらえるとあげたこちらも少し良いことした気分になる。
本当はされた側なんだけど。
「ありがと! 優しいね君!」
何の迷いもなく歯を剥き出しにして笑った女の子。
僕は素直に可愛いと思った。
頬や手、腕に汚れが付いてしまっていたのが少し勿体無いくらいで。
でもその子どもらしい汚れ方がまたこの子には似合っている気もした。
「で、どれが飲みたいんだっけ?」
「それ。」
「これ?」
「そう。」
女の子はすぐに財布を取り出し、ずっと黙って隣に立っていた一回り小さな男の子に話しかける。
姉弟だろうか。 あまり似てないな。
そんなことをぼんやり考えていると、女の子が急にこちらへ向き直った。
「ねえ、十円玉持ってる?」
「十円玉? 持ってるけど…なに?」
「ね、百十九円しか持ってなかったの。 でも今君が一円くれたからジュースが買えるわけ。
でも自販機って一円玉入らないでしょ? だから十円玉と換えて欲しいわけ。」
「ああ、そんなこと。 ならいいよ、はい。」
「へへ、助かります。」
仕方なく財布から十円玉を取り出し、細かくなった十円分の小銭を受け取る。
女の子は先ほど男の子が飲みたいと言ったグレープ味の炭酸飲料のボタンを背伸びながら押していた。
「ほらよ。」
「どうも。」
「気をつけて帰るんだよ。」
「……はーい。」
なんとも淡々とした会話だろうと、姉弟は無駄な会話をしないのかなとかいろいろ考えながら
男の子が買ってもらったジュース片手に公園から出て行く光景を見ていると、
女の子が満足げな笑みを浮かべて僕の元へとやって来た。
「今の、弟?」
「ううん、知らない子。」
「………、あえて突っ込むことにするよ。 何してるの君は。」
呆れた。
何知らない子にジュースを買ってあげてるんだろうこの子は。
僕が呆れた視線を向けていると、女の子はへらへら笑いながらベンチに座ったので
僕もその隣に座ってさっき買ったミルクティーのプルタブを開けた。
「この暑さじゃん、喉が渇いたってそこでヘタってたの。 だから救出したの。」
「お金なかったくせに?」
「本当はね、駄菓子屋の十円のジュースにしようと思って声かけたんだけど…
贅沢者なんだね。 さっきのジュースじゃないとヤダっつって聞かなかったの。」
ああ、なんだっけ。
さっきのあのファ……あれホントに何だっけ。
グレープ味の炭酸飲料。
確かあの男の子はそれを指差してた気がするんだけど。
まあいいか、と適当に相槌を打って紅茶を一口飲んだ。
「君、てっきりお金には厳しい子だと思ったのに、そうやって簡単に人に物奢っちゃうタイプだったんだ。」
「意外?」
「うん意外だね。 一円をも大切にする子が、簡単にその百二十倍ものお金を捨てるような真似しちゃうんだから。」
「……むむっ、人助けに使うのと、そのまま捨てるのとでは価値が違うよ。」
ちょっとムッとした顔をして、女の子はベンチに座ったまま足をブラブラと揺らした。
まだ小学二年生という幼い僕ら(たぶんこの子もそれくらいでしょ)は、足を伸ばしても、ベンチに深く座れば足は届かない。
足は揺らし放題というわけだ。
「家がね、貧乏なの。 お母さんはよくお父さんやお婆ちゃんに金の亡者って言われてる。」
「……金の、亡者?」
「うん。 貧乏だからあまりにもお金がなくて、すぐお金お金って言って、はしたないって。
はそんなお母さんをよく見てるし、庇うこともできないけど……」
しゅんと項垂れる彼女の姿に、僕はつい言葉に詰まる。
まさかこんなところでこんな深刻な話をされると思ってなかったから。
せっかく気分転換に紅茶を一杯飲んで帰ろうと思っていたのに、
これじゃここでも僕は気落ちしなくてはならない破目になりそうだと、
話し始めてしまった彼女をどう止めようか慌てて考える。
「確かにお金は大事だけど、はそれ以上のモノもちゃんと大切にしたいの。」
凛とした口調で、輝きを失わない、そんな目で彼女は真っ直ぐ見据えてそう言った。
まだ八歳くらいの女の子が、どうしてこんなにも重いモノを抱え、
そしてそれに押しつぶされることなくなお、こうやって立ち続けていられるのだろうか。
僕は、この時言葉にできない、何とも言い難い衝撃を受けた。
「君は、お母さんやお父さんが嫌い?」
「まさか、好きだよ。 どんなことがあったって嫌いになんてなれないよ。」
「うんそうだね。 もそうなの。 だからそんなお母さんでもは大好き。」
ニッコリと笑って後ろに手を付いて前屈みになる。
そしてそのまま、ぴょんっと軽々しくベンチから飛び降り、手を払った。
「僕には、どうしようもない親戚がいるんだ。」
くるりと彼女が振り返る。
大きな目がパチパチと開いては閉じ、僕を見つめる。
僕が突然話し出したことに少々驚いているようだった。
「僕の再従兄弟にあたる男の子なんだけどね。 どうしようもないくらい、意地悪なんだ。
今日も僕のこと気持ち悪いって言って殴ってきた。 それでも誰もアイツを怒ったりしないんだ。」
気が付けばいつも僕の近くにはアイツがいた。
友達を作ればいいのに、わざわざ僕の家まで来て僕を虐める。
そして嫌なことばっかり言って、笑うんだ。
僕が傷ついた顔をする度、アイツは笑ってそれを喜ぶ。
「大人達はみんな、アイツを不憫な子どもだと言ってどこか見放してる。
お母さんは僕に、少しの間だから我慢しなさいって、そう言うだけだった。」
まるでいつか、僕はアイツから解放される日が来ると、確信しているかのように。
「そして決まって最後に言うんだ。 受け入れてあげなさいって。」
僕の言いたいこと全てを諭すようにお母さんやお父さん、ましてや親戚中の大人達全員がそう言う。
僕に全てを任せ、全てを丸く治めようとしているかのように。
「それでも僕がアイツを嫌いになれないのは、やっぱり君と同じなのかな。」
僕がやや自嘲気味にそう言うと、彼女はしばらくしてから優しく微笑んだ。
まるで邪気のない、天使のような微笑で。
さっきの歯を見せた幼い笑い方とは違う、また不思議な笑顔。
「お互い、頑張ろうね。」
「………うん、そうだね。」
「大丈夫だよ。 きっと、未来は明るいって。」
「君、相当な楽天家だね。 ……はは、何だか変な感じ。
君と話してると僕のペースが乱れるよ。 不思議な子だね。」
「えーそう? それを言うなら君だって…」
堪えきれなくなった笑いを零す。
彼女もつられて笑うけど、そこでハッとして僕の顔をじっと見つめた。
「、私の名前、だから! 覚えておいて!」
「僕は萩之介。 、だね。 オーケー覚えたよ。」
「萩くん、またいつか会えるといいね! その時、ちゃんと一円返すからね!」
「別にいいって、一円くらい。」
「ダメだよ、ちゃんと返す。 返さなきゃって思うと、また萩くんに会えるかもしれないでしょ?」
ニカッと初めて見た時と同じ笑い方をする彼女に、僕の胸は何故か小さく時めいた。
温かくなる胸の内に気づくことなく、僕は空になった空き缶をゴミ箱へと放り投げる。
それが綺麗に入るのを見届けて、僕も心から湧き出た笑顔で頷き返した。
「だったら、約束だよ。 忘れないでね。」
***
「悪いけど、僕は君を受け入れることはできないよ、秋乃。」
家に帰って、僕は真っ先にアイツにそう言い放った。
僕の部屋で当たり前のように漫画を読み耽っていたアイツは、
目を数回瞬かせて、そしてすぐにムッとしたように僕を睨みつけた。
「君が僕を頼りにしているのはわかってる。 でも、僕じゃダメだ。」
「………なに、お前。」
「僕は君を受け入れることはできない。 ごめんね、秋乃。」
はっきりと、本心でそう話す。
アイツの鋭い目が僕から反れることはなく、ずっと睨みつけたまま。
ちょっと背筋に汗が流れた気がしたけど、
でも、脳裏に過ぎるのは先ほどの彼女の笑顔。
救われたのかも、しれないな。
知らない、ただ偶然出会った彼女の笑顔に、
僕は知らないうちに勇気付けられた。
「だけど、僕は君のことを拒絶したりはしない。 受け入れることはできないけど、」
「……ハギ、」
「フォローはするよ。 きっと、僕じゃない、誰かが見つかる日が来るから。」
暫く黙り込むアイツをじっと見下ろす。
アイツは俯いたまま低く、だけどどこか掠れた声でこう言った。
「………じゃあさ、」
―― そ れ が お 前 の 大 切 な 人 だ と し て も ? ――
脳裏に過ぎる、彼女の笑顔。
僕の救いとなった、小さな輝きはいつか、
自らの手で失うこととなる。
***
「ねえ、一円返してよ。」
「…はあ?」
合宿前日の昼休み。
予想通りの反応を返す君。
「何急に…。」
「別に、ただ貸したお金は返してもらおうと思って。」
「滝にお金を借りた覚えなんてこれっぽっちもないわよ。
私から金を巻き上げるとはいい度胸じゃん。 たとえ一円でも渡さないわよ!」
それでも君は覚えていないんだろうね。
僕だけが覚えている、大切な過去の一ページ。
瞳を閉じて、過去を振り返り、笑う。
あの日の笑顔が、いつか元通りになる日が来ることだけを願って。
2008.02.04 加筆修正