君が教えてくれたモノ

 

 

 

 

どうして上手く伝わらないのだろう。

ただ、寂しいだけなのに…―――

 

 

 

 

 

「おいはどうした。」

 

 

 

食堂に人の気が次第になくなってきた、そんな時だった。

氷帝のメンバーがちらほらと多い一角に樺地を連れた跡部がやって来たのは。

 

 

 

「そういや見てねえな。 何処行ったんだ?」

 

 

 

食堂内をキョロキョロ見渡しながら宍戸が言う。

「残っとけって言ったのにあの女…」とここにいないちゃんのことを思いながら跡部が舌を鳴らした。

確かにちゃんの姿は数分前からずっと見ていない。

長太郎が席を立ち、控えめにあの、と声をあげる。

 

 

 

「捜しに行ってきましょうか?」

「いやその必要はねえ。 樺地、お前が見てこい。」

「…ウス。」

 

 

 

いつもと変わらない短い返事を返すと、樺地は静かに食堂を出て行った。

行き場を無くした長太郎はそのまま自分の席に腰を下ろす。

それを見ていた忍足が何とも言えない視線を長太郎に向けた。

 

 

 

「ミーティング、始めるぞ。」

 

 

 

苛々を隠す事なく乱暴に引いた椅子に座った跡部がそう言った時、食堂の扉が開いた。

姿を現したのは、何故か立海の柳って奴と

 

 

 

「丸井くん!」

「よう、ちょっと邪魔すんぞ。」

 

 

 

軽く片手をあげ、反対の手で食堂の扉を閉めた。

ぷくーっと膨らむガムからほのかなストロベリーが香ってきて何だが鼻がくすぐったかった。

やべ、クシャミ出そ…。

 

 

 

「柳、ミーティングは今からだ。 いくら何でも早過ぎんだろうが。 出ていけ。」

 

 

 

椅子の背もたれに体を預けて腕を組んだ体勢の跡部が柳を睨み付ける。

 

 

 

「すまないが時間がない。 先に俺の話を聞いてくれないか。」

「……時間がないって何でなん? 何かあったんか?」

 

 

 

柳を睨み据えている跡部の代わりに忍足が疑問をぶつける。

だけど柳は首を軽く左右に振ると、手に持っていたノートを広げて

「いや、嫌な予感がするだけだ。」と大きな雨粒がぶち当たる窓へと視線を向けた。

 

 

 

「滝萩之介、」

 

 

 

まだ跡部の許可は下りていなかったけど、何も言わないってことは一応話を訊く気ならしい。

柳は滝の名前を呼ぶと、ノートを数枚めくってあるページで手を止めた。

 

 

 

「確か、お前はアイツと親戚だったな。」

「…うん、そうだね。 知ってたんだ?」

「ああ、アイツのデータを取れば簡単にわかることだからな。」

「なあなあアイツって誰だよ。 俺らにも判るように言えよな。」

 

 

 

話の筋が全く読めないらしい岳人から不満の声が上がる。

何についての話かは大体俺も判るけど、アイツとか代名詞を使われちゃわかるものもわからない。

というより、確信を持てない。

俺も岳人と同じでちゃんと判るように話してほしいと思う。

みんなもよくわからないといった表情を浮かべながら所々首を傾げていた。

 

 

 

「立海大附属中学3年、元テニス部、棟田秋乃、滝の再従兄弟にあたる人物。

 去年の夏、アイツは自分の幼馴染を死に追いやり、そしてその代わりにに目をつけた。

 つまり、のトラウマを作った張本人だ。」

 

 

 

淡々としたリズムで語られた棟田秋乃という人物。

瞬間に頭に浮かんだのはあの子の顔。

棟田秋乃、俺はこの名前に覚えがあった。

だって知ってる。 訊いた事がある。

だってね、だってだってその名前は…

 

 

 

『秋乃は…可哀想な人間なんだ。』

 

 

 

あの子がよく口に出していたアイツの名前。

あの子を死に追いやっただろう張本人。

そして、たった今現在進行形でちゃんを追い詰めている人間。

 

 

 

「誰やソイツ。 初めて訊く名前やな。」

「知りませんね。 そんな人。」

 

 

 

忍足と日吉が眉間に皺を寄せて首を傾げた。

そんな二人から跡部に視線を移すと、跡部は少し驚いた表情を見せていた。

 

(……跡部?)

 

 

 

「まあたぶん知らないだろう。 三年になる前、アイツはテニス部を辞めた。」

「え、どうしてですか?」

「さあ、…でも俺は当時ちょっかいを出してた女と上手く行かなくてただ自棄になって辞めたって訊いた。」

 

 

 

その女っていうのはのことな、と言って丸井君は近くにあった椅子へと腰を下ろした。

その様子を柳が横目で見遣り、「しかし、」と言葉を続ける。

 

 

 

「俺には少し違和感があって、棟田のことを少々調べさせてもらった。

 俺はどうしてもあの男がそれだけの理由でテニスを辞めるとは思えなくてな。」

「で、どうだったんだよ。」

「調べた結果、アイツが本当にテニスを辞めた理由はそこにはなかった。」

 

 

 

柳の言葉にぴくりと丸井君の眉が跳ねた気がした。

「え、マジかよ。」とちょっと驚き気味の声で言ったところからすると、きっと丸井君はそのことを知らなかったんだろう。

 

 

 

「これは俺の口から言うべきことではないから言わないが…」

 

 

 

柳が一拍置いて目を開く。

 

 

 

「アイツには時間がない。 仕掛けてくるのはたぶんこの合宿が終わってすぐだ。」

 

 

 

薄すら開かれた柳の目は、何故か跡部だけに向いていた。

跡部の表情はさっきとは違って何処か曇っていて、少しだけその目に動揺の色が見えた気がした。

 

 

 

「それもだけを狙ってのことじゃない。 たぶん、お前達にも被害が来るはずだ。」

 

 

 

覚悟をしておいた方がいい、と言って柳は最後に一目見るとノートを閉じる。

ぱたんと虚しい音が鳴ってそのノートは柳の右手に移る。

あまり理解していない様子の宍戸が「被害って何だよ…」と不満気に声を漏らした。

 

 

 

「跡部、お前は棟田という名前を聞いたことがあるな?」

 

 

 

柳の視線が一旦、宍戸へと向いてそのまま隣に座っていた跡部へと移る。

跡部は腕を組んだ姿勢のままじっと柳を睨み上げるようにして

 

 

 

「ああ、棟田はよく聞く。 親父がよく口にする名前だ。」

「つまり棟田は跡部にも劣らない財力を持っている。 言い換えれば跡部と互角の圧力を持っているということだ。」

「それがどうしたんだよ! 何で…何がしたいわけソイツは!」

 

 

 

何か気に食わないらしい岳人が苛々した様子で柳に食って掛かる。

それを気にもしないで柳は言葉を続ける。

 

 

 

「この合宿でのの行動は全て仁王達から棟田へと伝わっている。 つまりはとお前達が関わっていることも。」

「……アイツは狂ってやがるからな、何されるかわかったもんじゃねえぞお前ら。」

 

 

 

アイツは自ら手をくださなくたって簡単に人が殺せるんだからな、という丸井君の最後の言葉に、ここにいる誰もが驚きで目を見開いた。

俺達の間に少し沈黙と重い空気が流れる。

それを見越して柳は結んでいた口をゆくりと開いて

 

 

 

「気づいている奴もいるかも知れんが…」

 

 

 

そう言った柳のノートを持つ手が握り締めるように震えている。

 

 

 

「アイツ、は最も今死に近い場所にいる。」

 

 

 

かち、かち、かち、と時計の針が揺れ動く音が俺達の耳へ入ってくる。

もう一度カチンと大きな音が鳴ると柱に掛けられた鳩時計から白い不細工な鳩が飛び出して

この空気を全く読めていないパポーパポーというなんとも間抜けな声で鳴いた。

思う存分鳴いた鳩が満足げに再び時計の中へと戻っていくのを確認した柳が口を開く。

 

 

 

「あの目を見ている限りいつ死のうとしてもおかしくない、精神的にももう限界を感じているはずだ。

 だけどは自殺などしたくないと言っている。 自殺など絶対にしないと。」

 

 

 

時折見せるちゃんのあの寂しそうで悲しそうな表情が頭を過ぎる。

そうだ、彼女は心の中はきっと深い傷でいっぱいなはずなんだ。

あの子がそうだったように、ちゃんは今もなお逃げずにずっと一人で踏ん張り続けている。

普段の元気なちゃんを見ているとそれを忘れそうになるけれど、辛くないはずがないんだ。

一人で踏ん張っていけるほど、軽い問題でもないはずなのに、ちゃんは誰にも言わずにじっと耐えている。

 

 

 

「だから俺はがそう言う限り、出来る限りのサポートをしてやりたいと思っている。」

 

 

 

はっきりと柳はそう言いきると数歩前へ進んで跡部と向かい合うように立った。

どこからか携帯のバイブが聞こえて、すぐに止まる。

尻ポケットから携帯を取り出した丸井君がガムを膨らませながら携帯を開いてちょっと目を丸くした。

 

 

 

「どうかを護ってやってくれ、頼む。」

 

 

 

ぴくりとも動かない跡部の表情。

真剣な柳の視線を感じてもなお、跡部は黙り込んだまま口を開かない。

内心、俺の心臓はバクバク言っててすっごくハラハラした。

他の奴らもそうみたいで心配そうな顔つきで跡部と柳を交互に見遣る。

やがて、フッと口許を緩めた跡部が立ち上がり、

 

 

 

「テメェに言われるまでもねえな。」

 

 

 

そう言って鼻で笑ったのを見て、俺はホッと胸を撫で下ろした。

何だか、俺が息止める必要はなかったのかもしれない。

 

だけど、俺が安堵の息を吐いたのとほぼ同時だった。

急に食堂の扉が大きな音を立てて勢いよく開き、そこから切原が飛び入ってきた。

その表情はどこか、強張っている。

 

 

 

「赤也…お前いきなりメールなんかしてきてどうした、」

「大変なんスよ!!」

 

 

 

どうやら先ほどのバイブの犯人はこの切原だったようで、

丸井君が言い終わらないうちに切原の叫びに近い声が食堂内に響き渡った。

走ってきたのか、息が荒く、肩が激しく上下している。

 

 

 

「アンタらんとこのマネージャーさん、このままだと死んじゃうかもしんない!」

 

 

 

アンタらんとこのマネージャー、それ即ちちゃんのこと?

どういうことだよ!っていう宍戸の言葉に切原は少し息を吸い込んで乱れを整えると

 

 

 

「に、仁王先輩が…」

 

 

 

 

 

『――――…はあ? ちょ、それヤバイじゃないッスか。』

 

 

 

焦る俺を無視して仁王先輩はクツクツと喉を鳴らして笑う。

どうやら電話の内容はを二度と立ち直れないくらい追い詰めろってことだった、らしい。

やり過ぎて死んじゃったらそん時はそん時、それまでの人間だったんだとか言いながら笑ってたらしいけど…

俺はそれを訊いて思いっきり首を横に振った。

いくらなんでもそこまでする義理はないと俺が言うと仁王先輩はふーっと息をついて髪を掻きあげた。

 

 

 

『何じゃ、お前さん今更ビビっとるんか?』

『いやそうじゃなくて…何で俺があの人の為に殺人紛いなことしなくちゃなんないんスか!?』

 

 

 

可笑しいでしょ!って俺が抗議の声を上げると、

さっきまで可笑しそうに笑っていた仁王先輩の表情が一変したように冷たいものへと変わった。

 

 

 

『赤也、お前はテニス部存続のためにアイツの言いなりになっとるんじゃな。』

『あ、当たり前ッスよ! じゃなきゃ誰があんな気が狂った奴の言うこと訊くと思ってんスか!?』

 

 

 

本当はふざけんなって叫んでやりたい衝動をいつも抑えてる。

だけどそんなことしたら立海テニス部はお終いだし、俺の大好きなテニスも出来なくなる。

あの三人をぶっ倒すっていう目標だって、消えてなくなっちまう。

何故かそんな当たり前なことを今更仁王先輩は確認するように訊いてきたことに

少し疑問に思いながらも俺は思ってる通りのことを口にした。

 

 

 

『俺は、違う。』

 

 

 

え、という俺の声も掠れていてあまりちゃんと出ていなかった。

仁王先輩は後ろ髪を束ねていたゴムを外し、それを部屋の隅に弧を描いて軽く投げた。

 

 

 

『俺はテニス部を護るとかそんな理由でアイツの言いなりになっとるわけじゃなか。』

 

 

 

合わさる視線。

しかしそれもすぐに逸らされ、カーテンの隙間から見える窓の外へと向いてしまう。

 

 

 

『一人くらい、アイツの味方になったろう思ったきに。 俺はその役目を買っただけじゃ。』

 

 

 

その時見えた仁王先輩の横顔は、どこか儚げで、悲しそうな目をしていた。

あまりにも珍しい表情を見せるものだからそこから目が離せなくて、

俺は何も言えずに呆然とその横顔見入ってしまっていた。

 

 

 

『じゃけん、俺は行くぜよ。』

 

 

 

そう言うと仁王先輩は携帯を開いて何処かへ電話し始めた。

音量がでかかったから相手の声が携帯の外まで漏れていて、その相手が御影だってこともすぐに判った。

仁王先輩は御影に何か言っていたけど、俺はこの時混乱しすぎててあまり覚えていない。

 

 

 

『ま、俺が殺人犯になった時はよろしくの。』

 

 

 

ただ、頭に残っているのは、この言葉だけ。

 

 

 

 

 

「――――…俺、しばらくどうしようか一人で考えてたんスけど…やっぱりもうこれは黙っちゃいられないと思って、」

「クソッ! 何だって仁王はアイツにそんな執着心持ってんだよ!」

 

 

 

怒る丸井君が切原の声にかぶさるように叫び、怒り任せに机を殴ると

それとは反対に落ち着いた様子の柳が携帯を開いた。

 

 

 

「とりあえず二人を捜そう。 が見えなくなってもう結構経っている。 急がないと。」

「俺、幸村部長たちにも知らせに行ってきます!」

「ああ、頼んだぞ赤也。」

 

 

 

ウィッス!という元気な返事を残して切原は慌てて食堂を飛び出して行った。

「俺達も捜しにいくぞ。」と柳が跡部に向かって言うと、跡部は

 

 

 

「当然だ。」

 

 

 

と真っ先に食堂を飛び出していった。

後に続く俺達の背後で、窓の外が大きく音を立てて激しく光った気がした。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

気がつけば、体中に水を含んだ感触と誰かに抱きしめられる感触で目を開けた。

 

 

 

「に、お…」

 

 

 

雨と泥でぐしゃぐしゃになった私を抱きしめたまま顔を歪めている仁王雅治がいた。

私は慌てて体を起こして彼を斜面を背もたれに起き上がらせる。

 

 

 

「ちょ、大丈夫!? 何アンタまで落ちてんの!?」

 

 

 

小さくうるさいと呟く声が聞こえた気がしたけど、訊かなかったことにしてズボンの裾を捲り上げる。

見えたのは、テーピングでグルグル巻きにされた足。

 

 

 

「…やっぱり、アンタ怪我してたんだ。 今日ずっと、足庇ってたでしょ?」

 

 

 

仁王雅治は目を見開いてすぐに罰が悪そうに口を閉ざしてしまった。

そう、今日私が彼に感じていた違和感はこれだったんだ。

彼の足はグルグルにテーピングが巻かれていて、その隙間から覗く足は色が変わっていた。

 

 

 

「みんなは知ってるの…?」

「知らん。 そんなもん参謀にでもバレたら練習できんようなるじゃろ。」

「でもこの足の色は異状だよ。 ちゃんと医者に見てもらったほうがいいよ。」

 

 

 

「放っとけ。」と吐き捨てる仁王雅治の荒い息が耳を掠める。

じろりと見上げるように見つめられたその視線が何だかくすぐったい。

どうしたものだろうと思わず溜め息が零れた。

 

 

 

「宿舎戻ったら手当てしてもらいなよ。」

 

 

 

相手がこの態度なら仕方ないと、私は若干諦め半分で

仁王雅治の隣に座り込んで雨水が流れてる斜面に背中を預けた。

ちょっと抵抗はあったけど、既に濡れまくってて泥だらけだったからそれほど気にはならなかった。

 

 

 

「っ、」

 

 

 

転げ落ちた時に背中を枝か何かで切ったのだろう。

傷口に雨水が触れて激痛が走った。

思わず顔が歪んで小さく呻きをあげてしまった。

 

 

 

「のう、一つ、約束してくれん?」

 

 

 

少し掠れた仁王雅治の声がすぐ隣から聞こえてくる。

振り向くと目を閉じて肩で息をする彼の姿が薄っすらと見えた。

私が何よと訊き返すと仁王雅治は大きく息を吸ってそのまま言葉を続けた。

 

 

 

「…アイツのこと、受け止めてやって。」

 

 

 

雨の音が止まった気がした。

まるでここが無音の世界で、ただ仁王雅治の言葉だけが耳にすんなりと入ってきて、すごく変な気分になった。

 

 

 

「何があっても忘れないって、どんな形でもいいからアイツの存在を記憶の片隅に置いてやって、」

「何、言って、」

「同情だって何だってええ。 わかってやれとは言わん。 ただお前さんだけでも、アイツを忘れんでやって。」

 

 

 

少し潤んだ瞳が揺れ動く。

そんな仁王雅治の瞳に吸い込まれそうになりながらも私は何とか唇を噛み締めて自我を保った。

 

何を、言ってるんだこの人は。

アイツを忘れずに、記憶の片隅に置いてやれ?

そんなこと言われなくったって、自分の意思でなくったって、とっくにそうなっている。

忘れたいのに、嫌というほど傷をつけられ、そしてまたそこを抉られ、

私は忘れようとしても忘れられない傷をアイツに幾度もつけられて来たんだから。

だから、だからアイツのことなんて、

 

 

 

「忘れ、られるわけ、ないじゃん。」

 

 

 

ぼそりと呟いた言葉に仁王雅治は僅かに目を見開き、

そして掠れてほとんど出ていない声で微かに「よかっ、た。」と途切れ途切れに呟いた。

言い終わるやいなや、力尽きたように私に向かって倒れこむ彼の体を咄嗟の反射神経で受け止める。

 

 

 

「ちょ、何…あつっ!」

 

 

 

熱を帯びたその体に、私は驚愕した。

これは非常事態の何ものでもない。

こんな図体のでかい男一人を抱えて一体私にどうしろと言うのだろうか。

最悪な事態には最悪なことが重なるとはよく言うものだが、ここまで酷いといっその事大声を上げて泣きたくなる。

今泣いたところできっと誰も助けに来てはくれないのだろうが。

 

 

 

「誰か!! 誰か助けて!! 誰かいないの!!? ねえ!! 誰かあー!!」

 

 

 

私の声は虚しくもこの雨の叩き付ける音に掻き消されてしまう。

荒い仁王雅治の息遣いを背に聞きながら私は少し焦りを感じる。

 

 

 

「しょうがない、自力で歩くしか…」

「…お前さん、一人で行きんしゃい。 俺は、置いていって、よか。」

「そんなことできるわけないでしょ!? 何言ってんのよ!」

 

 

 

はあ、はあ、と辛そうな息遣いをする仁王雅治を見て思わず眉間に皺が寄る。

いくらさっきまでこの男にとんでもない目に合わされていたとしても、

これほどまでに弱った彼を見るとやはり良心の方が勝ってしまって助けなくてはと思ってしまう。

でも仁王雅治は伸ばした私の手をパシッと振り払って近づけさせようとはしなかった。

 

 

 

「俺は、お前さんを殺そうと、したんよ。 そんな、男を、助けることなんて、ない。」

「アンタ、もともと私を殺す気なんてなかったくせに…よく言うよ。」

 

 

 

私が何気なく発した言葉に仁王雅治の肩の動きが止まる。

大きく見開かれた目が私のことを見上げた。

 

 

 

「………なんじゃ、気づい、とったんか?」

「だって落ちた瞬間あれだけ驚いた顔されると…落とす気なかったんだなって、」

 

 

 

脳裏に過ぎる、落ちる瞬間見えた仁王雅治の驚いた表情。

それに助けようとして掴んだ私の腕。

その際に踏ん張ってしまった怪我をしている足の痛みで歪んだ顔。

結果、彼はそのまま私と一緒に落ちてしまった。

 

 

 

「違うの?」

「…いや、あっとるよ。 そうじゃな。 死んでもらっちゃ、いろいろと困るし。」

「何なのアンタ…。 何がしたいの?」

 

 

 

私が視線を向けても彼は雨を降り注ぐ空をじっと見上げている。

その横顔が何処か悲痛そうで、寂しそうだった。

 

 

 

「さあ、何が、したいんじゃろ。」

 

 

 

ぽつりと呟かれた言葉はそのまま空へと吸い込まれるように小さい。

最後に”アイツは”と付け足されたことにより、それが彼自身への疑問ではなく、

仁王雅治の言うアイツ、つまりは棟田秋乃に向けてだということを悟った。

 

 

 

「…すまんの」

 

 

 

消え入りそうな、果たして伝える気があったのかどうか判らないくらい小さな声で仁王雅治はそう呟くと、

今度こそ力尽きたように動かなくなって静かに規則的な寝息を立て始めた。

一体今の謝罪は何に対してのものだったのか、私がわかるはずもなかったけれど、

とりあえずこれ以上酷くなってはいけないと私が羽織っていたもうびしょ濡れのジャージを硬く絞ってから上へ掛けてあげた。

 

 

 

 

 

時折鳴り響く雷の音が、私の中の何かを掻き乱した。

 

 

 

 

 

2009.01.21 加筆修正