君が教えてくれたモノ
正しいモノって何だろう。
何も知らない私はいくら考えたってわかりはしない。
だってこれはね、全て歪んだ愛がもたらした悲劇なんだから…―――
「解散!」
幸村君の声がしんとしたコート内に響いて途端にざわめき出す部員達。
今日の練習はこれにて終了。
朝の事件以来極端に避けていたこともあり、仁王雅治や跡部景吾、それに滝萩之介と関わることもなかった。
それ以上に、目すらも合わすことがなかった。
私としては有り難いこのうえなかったけど、どこか胸の奥でチクリと痛みを感じた気がした。
「ねぇ、邪魔。」
「ッいたあっ!!」
憎たらしい言葉と共にゴツンと頭に硬い衝撃が与えられて思わず前へつんのめる。
軽く痛い後頭部を押さえながら振り返れば、案の定予想通りの口端を吊り上げたリョーマが
私の頭を殴った凶器であろうラケットを手首でくるくると回しながら立っていた。
「そんなところ突っ立ってたら通行の邪魔。」
「…はいはいすみませんねごめんなさいね今すぐどきますからさっさと通ってください!」
「何怒ってんのアンタ。」
「怒ってない。」
「ふーん、ま、どうでもいいけど。」
キョトンとしているところから見れば、リョーマは本当に私が何故機嫌が悪いのかわかっていないようだ。
まあ仕方がないと思う。
私だって普段は心が寛大なんだからさっきの跡部景吾達のことがなければ
ラケットで頭を殴られたくらいで怒ったりはしないはず………はず。
…………ちょっとくらいは手を出すかもしれないけど。
でもほんのちょこっとだけだよ。
額にデコピンをかますくらいしかしないよきっと。
「あ、そうだ、ねぇ」
さっさと部屋に帰ろうとしていた私の服の裾をリョーマがちょちょいと引っ張って呼び止める。
「ずっと気になってたんだけどアンタ…」
「な、なによ早く言ってよ。」
ちょっと出掛かった言葉を飲み込んで大きな瞳で私を見上げる。
その仕草だけは可愛らしいんだけどねえ。
「…ジャージの尻、穴開いてるよ。」
慌ててバッと振り返って自分のお尻を触って見てみる。
やだ嘘なにマジで!? え、何で!?
私まさかそんな恥ずかしい状態でずっとみんなの前にいたってこと!?
予想外の報告に慌てふためいていると、リョーマはプッと吹いて笑った。
「嘘に決まってんじゃん、馬鹿だねアンタ。」
「はあ!?」
「じょーだん、だってこと。」
ひらひらと手を振りながら呆然としている私をからかうだけからかって立ち去るリョーマ。
何だかもうわけがわからなくてちょっぴり泣きそうになる。
だから私、年上なんだけどな…。
見掛けはクールボーイな割にはリョーマって案外お茶目なんだなということが発覚したところで、私は再び片付けの作業に取り掛かる。
「雨、降りそうだなー。」
段々と雲行きが怪しくなりだした空。
今日雨だって言ってたっけ?
まあ天気予報なんて当たればいいな的なもんだからね。
最初っからあてになんてしないタイプだ私は。
それに山の天気なんてそれこそ自然の気分次第だ。
「やだなータオル乾かなくなっちゃう。」
そのうえこの辺りは雨が降ると土がぬかるみそうだから最悪だ。
きっと明日の練習はドロドロの泥だらけになりながらも好きでもない奴らの世話をするために
あちらこちらと走り回らなくてはならないのだろうと思うと今から気が滅入る。
「、」
作業を終えて手に付いた汚れを落としているといつの間にか背後に蓮二が立っていた。
「どうしたの?」
「……食後に少しだけ話がある。」
用件だけを手短に伝えると、蓮二はさっさと宿舎の中へと戻って行く。
それだけ? 話って何? なんて疑問が浮かんだが、
何だか嫌な予感が胸中を過ぎると、とうとう雨が本格的に降り始めたので私も宿舎へ戻る事にした。
* * *
「うっわ、外すっげ雨!」
向日岳人の嫌がっているのかウキウキしてるのかよくわかんない声が食堂に響く。
雨が本格的に降りだしたことにより、外は真っ暗で食堂もどこかじめじめとしていた。
お風呂上りの彼らにとっては湿ってようが何だろうがあまり気にはならないようだが、
滝萩之介だけはさっきからしきりに髪を弄っては眉間に皺を寄せていた。
「隣空いてたりするのかな?」
相変わらずなにこやかな笑顔を貼り付けた王子…いや、不二君が私の隣の椅子を引く。
特に誰が座るとも決まってなかったので適当に頷くと手に持っているトレイをテーブルの上へ置いた。
「あーそこ俺が座ろうと思ってたのに…ちぇ、じゃあ俺前でいいや。」
口を尖らせながら私の前の席の椅子を引いたのは丸井君。
不二君のトレイに乗ったご飯の量より遥かに上回る多さのご飯が乗ったトレイを置いた。
どれだけ食べれば気が済むんだろうってくらい食べるのねこの人。
どうせまた私のオカズかデザート狙ってるんだ。
だって今日はプリンだもんね。
「ねえ、知ってる? この土地、埋め立てて作ったらしいから大雨が降ると地盤が緩むらしいよ。」
「……何、そんな縁起でもねえこと今言うの?」
「うんちょっとさっき食堂のおばさん達が話てるの聞いちゃって…みんな知ってるのかなと思って。」
不二君はくすくす笑いながら、ご飯をがっつく丸井君を見て満足そうに微笑んだ。
ああ、やっぱりここそういうところだったんだ。
どおりで土が柔らかいと思ったよ。
一応話は訊いているものの、やはり食べることを止めない丸井君は「だから何なんだよ」とどうでもよさそうに呟いた。
まだ若干笑い気味だった不二君が今度は私に「知ってた?」と尋ねてきたので「薄々。」とだけ答える。
背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえて振り返ろうとすると「隣だ。」と言われたので見てみると、
そこにはトレイを持った蓮二が立っていてそのまま私の隣に腰を下ろした。
「、夕食を食べたら話があるって言ったな。」
「言ったね。」
「そのことでちょっと言いそびれたことがあってな、」
「おい。」
まだ蓮二が言い終わらないうちに不機嫌そうな跡部景吾の声がかぶさる。
見上げると、丸井君の隣辺りに樺地君を連れた跡部景吾が立っていて、
「このあとミーティングだ。 食ったら食堂に残っとけ。」
それだけを告げてさっさと立ち去ろうと踵を返した。
たった今話していた蓮二との約束が頭にあった私は思わず「え、」と声を漏らしてしまう。
その僅かな声を聞き逃さなかった跡部景吾は「あ?」と言いながら顔を強張らせて振り返った。
私はどうしようという視線を蓮二に向けると、相手はそれに気づいてくれたらしく、
「いや、ちょうどいい。 俺は氷帝全員と話がしたかったんでな。 今それを言いに来たところだ。
そのミーティングとやらが終わったら俺も参加させてもらおう。 いいか?」
そう言った蓮二に先ほどの会話の流れを知らない跡部はいきなり何言ってんだって顔をした。
それでも蓮二の言ってる意味自体は理解したのか、少しだけ私と目が合ったけれどすぐに逸らされ、
「勝手にしやがれ。」と言って樺地君を連れて何処かへ行ってしまった。
「………。」
左から不二君の視線を受けながらも、私は無言で黙々と食事を始める蓮二をチラリと盗み見たけれど、
彼はこちらに振り向く素振りも見せずにただ相変わらずの表情でご飯を口に運び続けていた。
「やなぎー、それって俺が参加してもオーケーな感じ?」
ずっと食べ続けていると思っていた丸井君が箸を持ったまま、彼にしては珍しい真剣な表情で蓮二のことをじっと見つめていた。
蓮二は質問をしている丸井君にすらも視線を向けず「ああ別にかまわん。」と返事を返した。
なんだか胸騒ぎがする。
何で、なんだろう。
まるでそれを楽しんでいるかのように雨はザンザンと降り続く。
大きな音と共に、窓の外が微かに光った気がした。
* * *
氷帝の奴らとかとかとあまり会いたくなくて、誰よりも早く食堂へ行った。
味わう間もなく一気に飯を食い終え、さっさと食堂を出て行って部屋に戻るとそこで窓の外をじっと眺める先輩の姿を発見した。
「仁王センパーイ何してんスかそんな所で。」
俺が声をかけると仁王先輩はゆっくりと振り返り、後ろ手でカーテンを閉めた。
「ちょいと考え事。」
「へーらしくないッスね。 嘘デショそれ。」
「…俺もたまには考え事くらいするんじゃけど。 ま、今は考え事っつーよりは思いに耽ってただけ。」
それの方がもっとらしくねぇと思ったけど何だか突っ込むのも面倒だったからそのまま言葉を飲み込んだ。
携帯を片手に何処か虚ろな目をしている仁王先輩を見るとすぐにピンとくる。
(絶対ぇ棟田先輩だ。)
仁王先輩はたまに、ほんとーにたまに、棟田先輩と何か話した後物思いに耽った顔をする時がある。
だけどそれは微妙な変化で、気づく人しか気づかないくらいのもの。
俺はそういうのに敏感な方だから真っ先に気づいたけど、きっと普通の奴なら気づかない。
俺は知ってる。 仁王先輩がこの顔をする時は棟田先輩と関わった時だ。
「何、言われたんスか…?」
ぼかした言い方だったけど俺の質問の奥を読み取った仁王先輩は少し目を見開いた。
だけどすぐにいつもみたいに口許に笑みを浮かべて俺の耳元まで顔を近付けてきた。
「昨日の夜に棟田から連絡が入った。」
続けて言われる言葉を俺はどこかで予測してたのかもしれない。
でも、俺の頭は付いて行かなくて、一瞬息を呑んで目を見開いた。
* * *
この後食堂に残れと言われたけれど少し早めに食べ終わってしまった私は辺りを見回す。
みんなはまだ食事を続けているようだ。
お手洗いに行きたくなった私は、氷帝のみんながまだ食事しているのを確認してから食堂を出た。
「ふー、何か気疲れしてるな私…。」
さっさとトイレを済ませ、鏡越しの自分の顔を見つめる。
何だか物凄く疲れきった表情をしていた。
私このままで大丈夫なのだろうかと不安に思いながらもお手洗いから廊下へと出る。
そして、そろそろみんなが食べ終わっている頃だろうと廊下に掛かる時計を見上げた。
「先輩、ちょっといいですか?」
食堂に戻ろうとトイレを出てすぐの角を曲がった時だった。
私のことを待ち伏せしていたらしい、ちょこんと首を傾げた御影咲ちゃんが立っていた。
一体何の用だ。そう思いながらも、
早くしないとミーティングが始まってしまうという焦りが混じった声で「何?」と訊くと
「ついて来てください。」
私の返事も聞く間もなく、私の手を掴んでさっさと歩き出してしまった。
「ちょ、私これからミーティングっ」
「いいから来てください。じゃないと咲が嫌われちゃうじゃないですか。
アンタのせいで仁王先輩からの頼まれ事できなくなっちゃうなんて…ありえないし。」
ぎゅうっと握る力が強くなって腕に爪が食い込む。
痛いと思いながらもそれは声にならず、されるがままに後をついて行かされる。
どうしようこのままだと跡部景吾に怒られちゃう。
そう思っても足はどんどん食堂から遠ざかって行って、気が付けばとうとうロビーまでやってきてしまった。
「ねえ、一体どういうつもり!?」
いまだ雨が降り続いている外。
そんな外へ出ようとした所でバッと手を振り払う。
振り返った御影咲ちゃんの表情を見て、一瞬躊躇ってしまったけれど負けじと私も相手を睨みつけた。
「うるさいな。 言うこと訊いてちゃっちゃと外出りゃいいんだよ!!」
その小柄な体のどこからそんな力が出るんだってくらい強い力で宿舎の外に放り出された。
転びそうになった体勢を立て直し、慌てて玄関に戻ろうと振り返ると御影咲ちゃんはそこにいなくて、
ご丁寧にも扉はしっかりと内鍵をかけられていた。
っやられた………!
「ちょっと! 開けてよ!!」
大粒の雨に打たれながらも必死に扉を叩く。
だけどそんな私の声なんて誰にも聞こえないくらい私に降り注いでいる雨の音は強かった。
「じゃ、行くか。」
ふと、雨の音に混じってそんな冷静な声が聞こえた。
咄嗟に振り向くと、そこには深緑の傘を差した仁王雅治が立っていて、
「ちょっと二人きりで話したいことがある、ついて来んしゃい。」
ぱちんと音を立てて傘を閉じ、それを扉の前に立て掛けると呆然と立ち尽くす私の手を引いて雨の中を歩き出した。
(うそ、何……何なの…?)
どんどん離れていく宿舎を背に、私達は降り注ぐ雨に打たれながら傘も差さずに真っ暗な道を突き進む。
雨のせいで髪が頬や額にへばり付いていて気持ち悪い。
それに、やけに静かな道だこと。 聞こえてくるのは耳障りな雨のザーザーという音だけだ。
「のう、お前さんは死ぬのが怖いか?」
私の手を引っ張って前を向いたまま歩く仁王雅治の方を見る。
私からは彼のうなじしか見えないけど、彼はたぶん普段の無に近い表情をしているんだと思う。
「怖い。」
「じゃあ殺されるのと、自分で死ぬの、どっちがええ?」
さっきと同じ声のトーンでとんでもない質問をしてくる。
「私、殺人者にはなりたくないの。 だから殺される方がいい。」
だけど私は訊かれたことをそのままちゃんと答えにして返した。
自分で死ぬ、それは自分を殺す事。
自分であってもそれは立派な殺人者だ。
そんなの、絶対に嫌だ。
私の答えを聞くと、ずっと歩き続けていた仁王雅治の足がピタリと止まる。
そして掴んでいた私の手を離す。
そのままその手は雨で濡れてへばり付いた髪の毛を鬱陶しそうに掻き上げた。
「だったら、殺してやろうか?」
目が何処を見ているわけでもない。
私すら見えていない。
虚ろなその瞳を、映っているのかもわからない私へと向け、勢いよく手首を掴んで軽く捻り上げられた。
その拍子に声が漏れて痛みで思わず顔が歪む。
「俺、アイツの最大の秘密知っとるんよ。」
手首を持ち上げられているため顔が近い。
彼の口許がゆっくりと歪む。
「だけどそれを誰にも言わんと約束した。 俺もそれを破る気はない。」
次々と雨が額から頬に、そして顎を伝って地面へと落ちていく。
この秘密は赤也も幸村も知らない俺だけが知っとう秘密なんじゃと、
雨の音で聞こえづらい彼の低い声が私の耳元で聞こえる。
「アイツの心は狂ってる。 歪んでる。」
でも、と仁王雅治は言葉を切り、私の手首を離してそのまま両手で私の頬を包み込んだ。
じっと見つめられた瞳。
綺麗だけどどこか霞んでいて、焦点がまるで合っていない。
彼は今、いったい、何を思っているのだろうか。
何を、見ているのだろうか。
「俺はアイツの理解者であってやりたいと思う。」
どうしてそこまでアイツの言うことを訊いていられるのか、
それは出会った頃から仁王雅治に対して少なからず私が抱いていた疑問だった。
ああ、そうか。
彼には彼なりの理由がちゃんと存在していたんだ。
ただ単に面白そうだからという理由なんかじゃなく、はっきりとした理由があったんだ。
アイツの秘密を知って、アイツを理解してやりたいって、そう思ったからだったんだ。
「だからアイツが望むのなら、お前をここから突き落とすことだって出来る。」
ぱっと手を離され解放されたと同時に驚いて振り返る。
そこは雨で土が緩み、少し形が崩れた斜面になっていて思わず顔を見張ってしまった。
土に滲み込みきれなかった雨が勢いよくその斜面を流れ落ちていく。
その速さでこの斜面がどれほどのものなのか容易に想像できた。
「俺はアイツに同情しとるんかもしれんの。 本当に可哀想な男だと。」
「ちょ、来ないでよ! それ以上来たら…っ、」
「誰にも理解されない愛情表現。 孤独の中、ずっと苦しんでる姿を見てると、思わず手を差し伸べたくなる。」
一歩、また一歩と近付いてきてその度に私もまた後ろへと下がる。
徐々に私の重みで土が沈む深さが大きくなっているのが感触でわかるけれど、仁王雅治が歩みを止める気配がない。
本当に落ちるんじゃないかってところまで下がりきると思わず踏みとどまろうと足に力が入ってしまった。
「きゃあっ!」
私の体重を支えきれなくなった土がドロドロと崩れて足の踏み場がなくなり、体が後ろへと傾いてく。
反射的に手を前へ差し出すと、その手を仁王雅治が掴む感触がした。
仁王雅治の表情ははっきりとは見えなかったけれど、脳裏に残っているのは驚いたように目を見開いているのと、
痛みのあまり顔を歪めているその表情だけ。
最後、誰かに抱きしめられる感触がして、私はそのまま目を閉じた。
2009.01.19 加筆修正