君が教えてくれたモノ
最悪のゲーム。
本格的に始まってしまったのはきっと、この時だったんじゃないのかな。
『つまんねぇなー。』
これは当時、あの人の口癖だった。
まだ一年生だった俺は憧れのテニス部に入ったばかり。
でも春休みから来ていた分、他の一年よりは先輩達と馴染んではいた。
あの時、部室には俺とあの人と仁王先輩しかいなかった。
まさかあんな話になるなんて、予想もしていなかったんだ。
『刺激が欲しいねぇ〜。』
『テニスしとればええじゃろが。』
『そんなんじゃねぇんだよ。 もっとこう、誰かの苦痛に歪む顔とか見たい感じ。』
『うっわ、棟田先輩鬼畜ッ!』
『悪趣味じゃの。』
冗談だと思ってた。
たまにヤバイ感じの空気を放つ人だったけど、それでもやっぱりどこかでただの冗談だと思っていた。
だって、俺達ただの中学生っしょ?
でもそれは、安易な考えだったと思う。
『そうだなー…赤也、お前と同じ一年の新入りマネージャー。 アイツ使えそうだな。』
『えー御影っスかぁ? アイツただの猫かぶりじゃないっスかー。 ブリっ子ブリっ子!』
『それそれ、その子。 その表裏使い分けてるところがいいんじゃん。』
『マジっすか。 先輩あんなの好みなワケ? 俺だったら二年のマネージャーさんの方が断然イイっスよ!』
言わなきゃよかった。
言っちゃいけなかったんだ。
いや、もしかしたら俺が言わなくとも、いずれはそうなっていたかもしれない。
だけど、俺は言っちゃったんだ。
向けちゃいけない矛先を、彼女へと向けてしまった。
『あー……じゃあそれでいいや。 アイツもうイラナイし。』
『え?』
『ちょい待ちんしゃい。 ……確かお前さん、幼馴染みなんじゃろ?』
『うん。 でももう飽きたし邪魔だし…アイツじゃダメっぽいし。』
『ダメって…何がダメなんスか?』
『んーこっちの話。 ……ああ、でもやっぱり最後にちょっとだけ楽しませてもらおうかな。』
何のことだかわからなかった。
ただ楽しそうに笑う先輩の顔が、俺の背筋をゾクゾクさせたことだけは覚えてる。
急に息が苦しくなって、胸騒ぎがずっと止まなかった。
あの時の先輩の嫌に上がった口元が、あまりにも声色と不釣り合いだった気がする。
そして時は、一刻一刻と、歩みを止めずに前へと進む。
『ねぇ、先輩方。』
『あ? 何だよ棟田。 片付け終わったのか?』
『終わったッスよ。 それよりも、あの一年のマネージャーさん可愛いと思いません?』
『はあ? 何だよ急に…、』
『…まあ確かに可愛いし懐いてはくるけど…それが?』
棟田先輩が突如、部室に入ってくるなりそんな会話を始めた。
突然の意外な質問に戸惑いを見せる三年の先輩達。
その時の部室には現在のレギュラーメンバーと、三年のレギュラーが揃っていた。
もうあと何ヶ月後かには三年はみんな引退だから、部活後は次の立海を引き継ぐこのメンバーでよく集まっていた。
当時はまだ二年だった幸村部長や副部長、柳先輩は無言で顔を見合わせる。
三年はみんなして着替えていた手を止め、真剣な表情を浮かべた棟田先輩を見つめた。
『聞いた話じゃ、二年のマネージャーにかなり仕事押し付けられてるらしいっスよ。』
たった、これだけだった。
この一言で全ては始まり、全ては終わる。
あの人の人生を奪ったのは、たったこの一言。
あの人は、最も醜いゲームを始めた。
言葉を巧に利用して、いとも簡単にゲーム開始の合図を告げた。
『ッ、先輩!』
『何だ、赤也か。』
『今の話…ホントの話なんスか?』
初めは疑って信用してなかった三年の先輩達だったのに、一人が口を開くと、次々とあることないことを言い合い始めた。
そしてついに騒がしくなった部室からさっさと出て行った棟田先輩を追いかけて尋ねる。
気づかなかったけど、俺の後ろには仁王先輩もついて来ていた。
目の前のあの人は、俺の質問にただ口角を上げて笑みを作るだけだった。
『聞いた話、だって言ったろ?』
『!』
『さーって、次の玩具誰にしようかなぁーっと。』
『なっ、何言ってんだアンタッ…』
『他校がええと思うんじゃけど…どうじゃ?』
『他校?』
『仁王先輩何アンタまでッ!』
『黙りんしゃい。のぉ、他校のが距離がある分面白いぜよ?』
『……。』
きっと、仁王先輩は気付いていたんだ。
これ以上あの人を野放しにしておくと、身近な人間を被害に遭わせることになると。
だから仁王先輩はあの人の注意を外へと向けさせた。
『じゃあそうしよっと。』
その意図をわかっていてか、それでもあの人は何故かすんなりと仁王先輩の提案に頷いた。
『咲、お前今一人でドリンク配ってんのか? 朱音はどうした?』
『え、あ…たぶん部室だと…思いますけど?』
『部室で何やってんだよ…サボってんのか?』
『え?』
『あ、もし一人で大変だったら一年部員とかどんどん扱き使えよ。 一人じゃ大変だろ?』
『あ、……は、はい。 ありがとうございます!』
そしてあの日から、三年の先輩達の御影に対する執着は一段と強くなった。
護る。
気遣う。
褒める。
可愛がる。
か弱い女の子はそれほどまでに可愛く見えるのか。
今までそれほど相手にしてなかったくせに、急に手のひら返したように何かにつけて声をかける先輩達。
『おい、早くタオル!!』
『あ、ごめんなさい今行きます!』
『おせぇよ早くしろって! ったく、たまに配ってると思えば使えねぇんだな。』
『……え?』
『おいボーっとしてないで俺にもタオル!!』
それとは反対に、二年のマネージャーさんの扱いは酷なものとなり、見ているだけでも痛々しかった。
あの一言だけでここまで酷くなるとは想像していなかった俺達。
この状況を悪く思うはずもない御影が、ここぞとばかりにあの嘘に便乗したことが原因だろうと、後で仁王先輩が零していた。
だけど現実は、とても残酷だ。
『…死ん、だ?』
夢?
何だコレ。
嘘だと、誰かに否定して欲しかった。
『朱音ちゃん、死んだんだって。』
死んだと聞かされた瞬間、あの人がまるで鬼のように恐ろしく感じた。
どうして今もこの状況であの人は笑っていられるんだろうか、と。
俺達が突然の朱音先輩の死の報告に茫然としている中、何やら新しい玩具を見つけたとかで、あの人はとっても楽しそうだった。
楽しそうだったけど、狂ってると思った。
『俺、辞めるわ。 お疲れさん。』
彼女が死んで、その後もまだ結構続けてたけど、結局三年になる手前くらいであの人はテニス部を出て行った。
誰かに聞いたけど、新しく見つけた玩具(奴隷とかも言ってたっけ?)とやらに逃げられたとか。
でもまだ諦めてはないんだとか、今は一時休戦なんだとか。
とにかくよくわかんなかったけど、この時ばかりはあの人も少しだけ情緒不安定になっていた。
で、仁王先輩はこの合宿で出会った例の玩具を見て、即あの人に電話。
……この人も一体何考えてんだか。
そしてそのことによってあの人が差し出してきた脅しとも言える約束。
『立海テニス部に虐めで自殺があったなんて過去、バラさない代わりにアイツ潰しちゃって。』
君たちだってまだ、テニス辞めたくないデショ?
電話越しに響くあの人の笑い声。
どうしようもないくらいムカついて、だけど逆らえなくて。
俺達は唇を噛み締める思いで頷くしか他なかった。
だってこれしか道がなかったんだ。
悔しいけど、この道しか何も残されていなかった。
じゃないとあるのは、俺達が堕ちる道だけ。
悪いけど、誰に何を言われたってかまわない。
だって俺は、自分が潰されちまうとわかってる道を選ぶほど、できた人間なんかじゃないんだ。
***
「ねえジロー。」
襖の向こうは枕が落ちる音や叫び声で騒がしい。
襖一枚で区切られたこの空間だけが別世界のようにシンとしていた。
「ねえジローってば。」
時折、物凄く鈍い音がして枕が襖を揺らす。
何が一番煩いかって、気丈が荒くなった岳人のライバル心剥き出しのキャンキャン声が一番煩い。
うざいなー本当。 確か菊丸だったっけ?
あの岳人と一緒でぴょこぴょこしてる奴。
あれ相手にきっと熱くなってんだろうな〜って、そんな事を考えながら寝転がって天井を見上げていた。
意思に反して落ちてくる瞼に気を取られていたら、いつの間にか滝が天井との間に割り込んで俺の顔を覗き見ていた。
「………。」
「シカト?」
「…あー違う違う…滝だーって思ってただけー…」
「そう。 で、さっさと目を覚ましてもらえないかな? 話がしたいから。」
「ん〜わかっ………………………………………………」
「起きろ。」
無理矢理目を見開かされる。
ちょ、今光が目玉に突き刺さった感覚がしたよ! びっくりしたあー!
何て言うか、天に召されたのかなってくらい光がぶおぉってなった!
「目、覚めた?」
何となく、滝に余裕がないことは気付いてた。
口調が、いつもの三割増きつい。
「…覚めたには覚めたけど…何も教えないよ?」
「……ジローは、それでいいの?」
「何が?」
「自分だけで全てを背負って……護れるのかってこと。」
何を、とは言わない。
隠れた言葉の裏にあるモノに俺は気付いている。
そして滝だって、気づいてる。
俺が誰にも言わず黙っているモノ。
ずっと、一人きりで隠しているモノ。
「また同じこと繰り返すつもり?」
何にも話した事なんてないのに、何故か確信をついた滝の質問。
一体どこまで知ってるのかな。 まさか全部?
少なくとも俺が隠してきたモノ、彼女の存在は知っている口調だ。
俺以外にもいたんだな、とちょっとだけ悔しいという感情が滲み出てきていたのは内緒。
「…ちゃんは、何時までもつのかな?」
「は強いよ。 ……でも、」
そう言いかけて滝は口を噤む。
俯いた視線に、伏せがちになる睫毛。
閉じそうになる目蓋を堪えながら、そんな滝をただぼんやりと眺めていた。
「時に物凄く寂しそうな顔をするんだ。」
そこが心配なんだ。と煮え切らない笑みを浮かべて滝は窓の外に視線を向けた。
今寂しそうなのは、滝の方だよ。
そんな滝の目には一体何が映っているのだろうか。
俺の位置から窓の外は見る事ができないかった。
ちゃんは今、たぶん一人なんだと思う。
頼れる人、一人もいないんじゃないかなって。
だったら、それはきっと、すごく悲しいこと。
人の温もりを知ってしまっているからこそ、失った悲しみも大きい。
初めから知らずに生きてきた人より遥かに、悲しい。 寂しい。 苦しい。
ちゃんも、あの子と同じようにたくさんのモノをアイツに奪われちゃったんだね。
それは、跡部を見る時の彼女の目を見たらわかる。
面影が、重なるんだ。 跡部と、アイツの。
俺はアイツの顔や姿、何一つ見ていないけど、何となく似てるんじゃないかなーって思う。
あの子から聞いた話からアイツの像を自分の中で作ってみたけど、結構いろんなところで跡部とピッタリ当てはまる。
だけど何か、根本的なところが違うってことも俺は知ってる。
それは俺が跡部の傍でテニスをしてきたからわかるのであって、
まだ関わって日の浅いちゃんならアイツと重ねて見てしまうのも納得できる。
それでも、いつかは知って欲しい。
アイツと、跡部は全然違うのだと。
ちゃんにも、跡部の良さを知って欲しいと思う俺は…少し自分勝手なのだろうか。
「ねえ滝ー…」
「ん、何?」
「俺、跡部好きー。」
「うん知ってる。」
「ちゃんも好きー。」
「それは初耳だね。」
「だって今初めて口にした。」
「……それは恋愛対象として?」
滝が窓に映る自分の姿を見ながらそう呟いた。
何となく、今滝の目は見たくないな、と思って俺も天井を見つめたまま頭の後ろで手を組んで一度、大きく欠伸を零した。
「さあ、どうなんだろう。」
まだ、よくわかんない。
このモヤモヤした気持ちが恋なのか。
あの子と同じ境遇に置かれた彼女を哀れんでいるだけなのか。
まだ、俺は自分でも彼女に対して護ってやりたいとしかはっきりとした感情が湧かない。
傷ついた顔は見たくない。 ただそれだけ。
滝は俺の曖昧な返答に「ふーんやるね〜。」と素っ気無く答えて窓をガラリと開けた。
冷たい夜風が一気に部屋の中に入ってきて、眠気で温まっていた俺の身体をスッと冷やしていった。
滝が今何を思っているのか、そんなことをぼんやりと考えながら俺は天井の斑模様を眺めていた。
***
「じゃあ頼んだぜ、仁王クン。」
携帯の電源を切る。
コレでかけ直してきても繋がらない。
有無は、言わせない。
「……アイツ、どんな顔するんだろうなー。」
外の冷たい風で揺れ動くカーテン。
そこに映る人影。
窓の縁に腰掛け、夜空にくっきりと浮かぶ月を見上げた。
男の顔は月の光に照らされ、薄ら青白い笑みを浮かべる。
「さーて、どこまで耐え抜いてくれるのかな。」
ゾクゾクする。
電源が落ちた携帯を握り締める手にぎゅっと力が篭る。
電気が消えて真っ暗な部屋の味気ない壁に掛かった一冊のカレンダー。
そこに印された赤いシルシ。
『アンタなんか、大ッ嫌い!!』
もうすぐ、終わる。
もうすぐ終わってしまうから。
『もう貴方に会いたくないんですって。』
だから早く。
一刻も早く。
『ごめんなさいね、帰ってくれる?』
無惨にも、床に散らばった日めくりカレンダー。
その一枚一枚には黒いマジックで描かれた太いラインが乱雑に交差している。
何にもない部屋にはただそれだけ。
まるで、何かのカウントダウンのように。
『時が来たら、また会いに来ます。』
さあ、ゲームの本番はこれからだ。
合宿なんて所謂ただの前夜祭にすぎない。
思う存分アイツらに傷口を抉られて帰ってくればいい。
それは、しばらく俺から離れていたお前への罰。
「俺はお前だけを愛してんだからな、。」
耐え抜いてくれよ。
その傷だらけの心をずっと、ずっと、ずっと抱えて。
いつまでも俺だけを思っていればいい。
それが恐怖心からでも何だっていい。
ただ、ずっと俺のことを一時も忘れずにそのちっぽけな胸に刻んでくれ。
せめて、お前だけでも、ずっと。
愛してる。
いつだって忘れないで。
誰でもいい。
この狂った愛を受け止めて。
そう たとえ俺が … ――――
2008.12.18 加筆修正