君が教えてくれたモノ
売られた喧嘩は絶対に買うよ。
だけど、お金の話になると途端に私は弱くなるんです。
「い、いやぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
私の悲痛な叫び声が廊下に響き渡る。
嫌でも思い出してしまうのは、ほんの数ヶ月前までの私とアイツ。
助けて。 助けて。 助けて。
もう、堪えられないの。
――――― ほら、去年結構盛り上がった噂の棟田先輩のドレイの女、あの氷帝のマネージャーらしいっスよ。
やっと解放されたと思っていたのに。
アイツの存在から逃げ切れたと思っていたのに。
この合宿にはアイツを知っている人達がたくさんいる。
しかも、揃いも揃ってアイツのように蔑んだ目で私を見下している。
忘れたわけじゃない。
今でもしっかりと記憶に焼き付いて私の中から消えはしない。
いつだって、私を見るあの目が体中の血の気を奪っていくんだ。
***
いつだったか、顔を上げればアイツがいた。
何がそんなにアイツに自信を与えるのかは知らないけれど、アイツは自信たっぷりな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
そして差し出される手。
取ろうか。
それとも振り払おうか。
ふたつの理性が私の中で葛藤を始める。
『アンタ名前は?』
『……、。』
『ふーん、ね。 俺アンタが気に入ったんだ。 俺のモノになれよ。』
自分のモノになるのが当たり前だと信じて疑わない、その自信に満ち溢れた表情。
見下ろしたその目がいかにも私を蔑んでいて、有無を言わせない威圧感。
何だかすごく悔しくて、絶対にコイツには負けたくなくて、私は抵抗心で小さく首を振り続けた。
だけどアイツはわかってた。
私が逆らえないモノ。
それを突きつけられることにより、決して逃げることを許されなくなった私。
アイツはただ嘲笑って、そんな私をどん底へと突き落としたんだ。
だから、アイツが私のトラウマであるように、アイツにそっくりな跡部景吾が私は憎くて仕方がないんだ。
とばっちりだってわかってる。
跡部景吾はアイツじゃない。
アイツに似ているけれど、アイツではない。
わかっているけど、信じたくないんだ。
お金持ちなんてみんな、アイツと一緒なんだって。
私のような人間を見下して、馬鹿にして、蔑んで。
最低な人間なんだって……ねえ、そうなんでしょ?
跡部景吾、私はね。
アンタの事を信じて裏切られる事が、とても怖いんだよ。
***
身体を抱きしめるように蹲って震える。
そして笑い出す切原赤也。
そんな後輩の姿を見て、ジャッカルは少し眉を寄せる。
可哀想に。
そう思っても、自分にはどうしてやることも出来ない。
ただ、後輩である切原赤也に「もうやめとけ。」と言ってこれ以上の手出しをさせない事しか出来なかった。
その場に蹲ったままひたすら息を吸っては吐き、肩を上下に揺らしては泣き続ける。
ジャッカルは胸が締め付けられる思いで目を細める。
「おい、お前大丈夫か…、」
「ちょっとジャッカル先輩、何心配なんかしてんスか。 もう、本当にお人好しだなアンタは…。」
「そんな事言ってないで赤也、お前も何とかしろよ。 この子、過呼吸起こしかけてんじゃねぇか?」
はあ?
切原赤也の間抜けな声が廊下に響く。
激しく呼吸を繰り返すの姿を横目で見下ろし、鼻で笑った。
「大丈夫っしょ。 それに勝手に叫んで泣き出したんだし…俺知らねぇっつの。」
泣き止まないのの事が心配で気が気でないジャッカルは、半ば予想していた切原赤也の返答にほとほと呆れる。
そんなジャッカルに舌打ちを鳴らすと、切原赤也はこの場を立ち去ろうとに背を向けた。
しかし、良心を持ち合わせているジャッカルはの事を置いて行くわけにはいかず、「おい。」と切原赤也に呼びかける。
その時、廊下に響き渡る第三者の足音。
その音はジャッカルや切原赤也の前でピタリと止まる。
そして、見覚えのある声が二人達に向けられた。
「うちのマネージャーを泣かすとはいい度胸じゃねえか、あーん?」
「あ、とべ…」
ジャッカルが現れた人物の名を小さく呟く。
眉間に皺を寄せた跡部景吾がを背で隠すよう、二人の前へゆっくりと立ちはだかった。
思わぬ人物、跡部景吾の登場に切原赤也は再び舌を鳴らし、振り返る。
ジャッカルは交互に二人を見遣りながら心配そうな顔つきで切原赤也の名を呼んだ。
すると切原赤也が煩わしそうに跡部景吾の方へ視線を向ける。
跡部景吾の背後に隠れ、未だ泣き続けるの姿が視界に映った。
「跡部さん、勘違いしてるようだから教えてあげるッスよ。」
「……勘違い、だと?」
「先輩は俺達に怯えているワケじゃねえ。」
切原赤也は不敵な笑みを浮かべて鼻で笑う。
憎たらしくも切原赤也らしい挑発に、鋭い目つきで睨み返す。
そして少し申し訳なさそうに視線を宙に浮かせているジャッカルに視線を向けると、一瞬だけ目が合った気がしたが、
動揺しきったジャッカルに素早く逸らされ、仕方なく再び切原赤也へと視線を戻す。
「だったら、誰に怯えてるってんだ。」
まだ切原赤也は笑みを崩さない。
その勝ち誇ったような、人を見下す態度が気に食わない。
跡部の眉間にはずっと、皺が寄ったっきりだ。
「…………何も知らねぇって、怖いもんだな。」
突然低くなった切原赤也の声。
跡部景吾の眉がピクリと跳ね上がった。
少し落ち着きを取り戻してきたは、涙で濡れた目蓋をそっと開ける。
すると、突然視界に飛び込んできた大きな背中にぎょっとした。
さっき聞こえた声は自分の思考回路が正しければアイツ、跡部景吾で間違いはないだろう。
いまいち状況が理解できていないは、乱れた息を整えながらその大きな背中を見上げていた。
「先輩を苦しめてるのは、アンタみたいな自分勝手な金持ちなんスよ。」
無言のまま跡部景吾の目がゆっくりと見開く。
切原赤也はそんな跡部景吾の反応に満足したのか、にんまりと笑みを浮かべる。
「それじゃあまた食堂で!」と元気に言い残し、戸惑い気味のジャッカルの腕を掴んで踵を翻した。
廊下に響く二つの足音が段々と遠ざかって行くのを右から左に聞き流し、跡部景吾とは目も合わすことなくピクリとも動かなかった。
切原赤也とジャッカルが去ったその空間はやけに静かで、この場に二人という事実を一段と重く感じさせた。
「……立てるか。」
重い沈黙の空気を破ったのは跡部景吾。
手を差し出し、問いかける。
小さく頷いたはその手を取ることなく立ち上がると、気まずそうに視線を泳がせた。
目には乾いていない涙の跡。
だけど、その訳を跡部景吾には聞かれたくはない。
は跡部景吾と目を合わせることなくその場に佇んでいた。
「厄介事に巻き込まれてんじゃねぇよバーカ。」
「…ごめんなさい。」
薄く開かれた口から紡がれた小さな言葉。
跡部景吾はまたしても眉間に皺を寄せ、自分より少し背の低いそんなを物憂げに見下ろした。
「アイツらと何かあったか言いたくないなら言わなくていい。」
「………うん。 じゃあ、言わない。」
俯き、足元をじっと見つめる。
その肩が小刻みに震えている事に気がついていた跡部景吾は、「そうかよ。」と言ってそれ以上深く追究する事はなかった。
「俺はお前の過去に何があったのかなんて知らねえ。 俺様にとってはどうでもいい事だ。 けどな、。」
「………。」
「お前が俺を嫌っているのは初めから気づいてた。 そして、それを承知でお前をマネージャーにした。
どうせ合宿の間だけのマネージャーだし、特に支障はないと思っての行動だ。」
俯いているせいでの表情は見えない。
「だけど、気分が変わった。」
真っ直ぐに下ろされている小さな手が、ぎゅっと強く拳を作った。
「お前のその態度、気に食わねぇな。」
跡部景吾のひとつひとつの言葉に身体が過剰に反応を示す。
低く、重い、ゆっくりとした口調がの動悸を少しずつ激しくしていく。
「俺様を何処の誰と重ねているのかは知らねぇが、」
ひゅっ
「人の中身もまともに知りもしねぇで勝手に苦手意識作ってんじゃねぇよ。」
顔の横、擦れ擦れのところを何かが横切る。
耳を掠った鈍い音。
咄嗟にぎゅっと瞑った目を開け、恐る恐る視線を横へずらしていくと、跡部景吾の拳が見えた。
自分の頭の中で跡部景吾が壁を殴ったんだと認識できた瞬間、の目は大きく見開かれて背筋に嫌な汗がゆっくりと流れ落ちていった。
「次、そんな目で俺様を見てみろ。 ぶっ殺すぞ。」
決して女の子に向けるようなモノではない言葉を吐き、跡部景吾はもと来た方向に向かって足を踏み出す。
驚きのあまり上手く声が出せないは、その背中をじっと見つめ、大きく息を吸って吐いた。
今、跡部景吾は間違いなく怒っていただろう。
怒気を含んだその瞳と声色に息をすることすら忘れ、自分がちゃんと立っているのかもわからなくなるほど震え上がった。
本当に怖かった。 死ぬかと思った。
鋭いあの瞳に、本当に殺されるかと思った。
何故。
何故それほどまでに怒る必要がある。
何故誰もがみんなそっとしておいてくれないのだろうか。
もう、平穏に過ごす事が出来たらそれでよかったのに。
私は、それほど多くを望んでいないはずなのに。
目を閉じれば、真っ直ぐに見つめられた跡部の青い綺麗な瞳が、目蓋の裏に見えた気がした。
***
「あー丸井君だ丸井君!!」
ロビーのソファーに腰掛け、テーブルの上に足を乗せて、食前のアイスを口に含む。
うーん、うまい。 やっぱアイスだよな。
あのソーダ味も惜しかったけど、このオレンジ選んで正解だった。
………でもやっぱり食後にあっちのアイスも食ってみるか。
風呂から上がったばっかなのか、水色のタオルを振り回しながら小走りで向かって来る芥川の姿が目に飛び込んで来た。
その少し後ろには我関せずな忍足の姿。
面倒なモノは他人に押し付けようとかそういう魂胆なんだろう。
……くそッ、こんなことなら赤也や真田がいてもいいから部屋で食えばよかった!!
「なに食べてんのー!? ご飯前なのにいけないんだ!!」
「いけなくなんてねえよ。 これ俺にとっては前菜と一緒。」
「いや、それ完全に無理あるわ。 アイスと前菜を同じにすな。」
呆れ顔の忍足がツッコミを入れにわざわざ俺の元へとやって来た。
てっきり芥川を俺に押し付けて忍足はさっさと部屋に帰るんだろうなって思ってたのに。
ふと気がつくと、俺の隣で尻尾を振るように芥川が物欲しそうに俺のアイスを見つめていた。
「絶対やらねえぞ。 シッシッ。」
「えーケチー!」
「食いたいんだったら自分で買えよ。 余ったら俺が食ってやるから。」
「自分それおかしいやろ。 明らか食べ残し狙ってるやん。」
「ちっげえよ! 俺は捨てるのが勿体無いから言ってるだけだっつーの! 食い意地張った奴みたいな言い方すんな!」
失礼な奴だな。
でも図星だからこれ以上は何も言わねぇけどな。
食べきってしまったアイスの棒を少し離れた場所にあるゴミ箱へ向かって投げる。
アイスの棒は綺麗な弧を描いて何処に当たるわけでもなくすっぽりと入っていった。
「よっしゃ。 天才的だろぃ?」
「うんうんさすが俺の丸井君だ!!」
「……俺別にお前のじゃねぇから。 何か勘違いされそうな言い方やめてくんね?」
ったく、煩いのに捕まっちまったなー。
赤也も負けないくらい煩いけどアイツは殴っときゃそれで終わるしな。
他校生はそう簡単に殴っちゃ幸村君に怒られかねない。
……よし、部屋に戻ろう。
そうと決まればさっさと立ち上がる。
さっきから嬉しそうにニコニコ笑いながら俺の事を見つめてくるこの男をちらりと盗み見た。
…なーにがそんなに嬉しいのかねぇ。
まあそんなことより、早く晩飯の時間にならねぇかなーと時計を見上げながら肩を解した。
すると芥川のすぐ後ろに立っていた忍足が俺の名前を呼んだ。
俺は視線だけを忍足に向ける。
何だよ。
少し躊躇いがちなその視線に思わず眉間に皺が寄る。
「その…何や、自分ところのマネージャー……どうや?」
「咲? どうって…何が?」
急に口の中が物寂しくなった。
ガムをポケットから取り出して口の中へと放り込む。
再び芥川が物欲しそうに見つめてきたからわざと見せ付けるように噛んでやった。
忍足は困ったように視線を泳がせ、あーとかうーとか変な呻き声を上げながら何かを考えているようだった。
「日頃、どんな子なん?」
「あー? そんなこと聞いてどうすんだっての。 それよりも、お前んところのマネージャーどうにかしろよ。 咲にドリンクかけやがってよ。」
「違うよ丸井君!」
耳がキーンと響く。
突然耳元で芥川に叫ばれ、思わず顔を歪めて耳を塞ぐ。
忍足が少し慌てた様子で「落ち着けアホ。」と言いながら芥川の髪の毛を鷲掴みにして後ろに引っ張った。
「髪が、髪が千切れる〜…。」
「安心し、まだまだたくさんあるわ。 よかったな。」
「そういう問題なのか? これって。」
「丸井君助けて〜…痛いC〜……」
俺に向かって手を伸ばし、助けを求める芥川。
助けるつもりなんてさらさらない俺はガムを膨らましてポケットに手を突っ込んだ。
あー腹減った。
飯までもうちょっと時間がある。
俺我慢できねぇっての。
何で飯がこんな時間に予定されてるわけ?
俺の腹時計はとっくの昔に音を鳴らし続けてるんですけど……。
他の奴らの時計狂ってんじゃねえの?
自分の世界から現実の世界へ戻ってみると、やっと解放された芥川が涙目で頭を撫でながら忍足を睨みつけていた。
よほど痛かったのか、顔が相当歪んでいた。
おーいさっきまでの無邪気な笑顔はどこいったー?
「で、何の話してたっけ?」
「お前ってホント単純な生き物だな。」
「丸井には言われたないやろ。 まあ間違ってへんけどな。」
痛みのあまり会話の内容を忘れてしまったらしい芥川がう〜んと唸りながら顎に手をあて、考える素振りを見せる。
しばらく様子見していると、「あーそうそう。」なんて言いながら手を叩いてまた俺に向き直った。
膨らませていたガムがパチンと割れる。
なんだかさっきまでは口寂しかったはずなのに、これ以上ガムを噛む気が起こらなくなって、さっきポケットにしまった包み紙を取り出した。
「がドリンクかけたかけないの話しだろぃ。」
「うんそうだったね。 ゴメンね思い出した。」
「ったく、何なんだよお前は……、」
包み紙にガムを吐き、それをゴミ箱に投げ捨てる。
ゴミがちゃんと入ったのを確認すると、呆れた視線を芥川に向けた。
芥川はへへっと笑ってまた真剣な顔つきに戻る。
「ちゃんはそんなことする子じゃない、って言いきれるワケでもないんだけどさ〜。」
「何やそれ……、」
「う〜ん、ただ俺が知ってるちゃんはカッとなったら水ぶっ掛けちゃうかもしれないけど……ドリンクはかけない、かな。」
「はあ?」
何か納得したように忍足は「なるほどな。」と頷く。
俺はというと、その微妙な違いは何なんだと、意味がわからないあまり間抜けな声を出してしまった。
水はかけるけどドリンクはかけない。
何だソレ。
もしかして何か拘ってんの?
「たぶんさ、人にかけたりするぐらいならちゃん自分で飲むと思うんだよね。」
「まあ勿体ねぇもんな。 俺だって自分で飲む。」
「前にね、ボトルひっくり返して零しちゃっただけで一日中シカトされちゃったんだよ俺。 ちゃん酷いC〜。」
「酷いっていうか…まあ、ドンマイだな。」
芥川はいたって真剣な顔で「だからそんな子が自らドリンクを人にかけたりなんてしませんー!」と言い張っていた。
今の話での無罪を認めるにはまだまだ証拠が足りないように思う。
だけど、今回の話を聞いて、何となくだけどという人物の謎が増えた気がした。
ドリンク零してシカトって……何なんだよ一体。
どれだけ心狭いってか、ケチ臭いんだよ。
……いや、待て。
その前にコイツが何か仕出かしたに違いない。 うん。
ドリンク零しただけでシカトはいくらなんでもないだろ。
芥川自身に問題があったんだろ、たぶん。
「まあそういうわけでアイツがやってへんって言う以上は……そんな責めんとったってくれへんか?」
芥川をフォローするように、忍足が苦笑いを浮かべながら俺に問う。
氷帝の奴らからしたらそりゃ仲間が嫌われるのは喜ばしいことではないし、むしろ辛いに決まってる。
確かにやったかやってないのかよくわからないうちに責めたりするのはあまりよくないし、こちらとしても気分が悪い。
俺たちはテニスをしにきたんだから、楽しいテニスをしている時に争い事は正直ゴメンだ。
「わーったよ。 心配すんな。」
俺はというと、別にそんなに面倒事に関わる気はもともとねぇし。
とりあえずは二言返事で頷いた。
そんな俺を見て二人は安心したように息を吐いて笑った。
ったく、めんどくせぇなー。
何なんだよ、みんな楽しく合宿できねぇのかよ。
『何かもう…全部が全部疲れるんだもん。』
………ま、何だかんだ、大事にされてんじゃん。
よかったな、。
それに確かって昼飯の時にデザートくれたんだっけ?
俺的に悪い奴ではないと思うんだけどなー。
俺はまだ何も知らなかった。
自分の弱さも、お前やアイツの辛さも、孤独さも。
助けてやれなくて、ゴメンな。
なあ、もう遅いかもしれないけどさ。
こんな自分勝手な俺を、許してくれますか。
2008.12.16 加筆修正