君が教えてくれたモノ
嫌いだった。
嫌いだったんだ。
本当に近寄りたくないくらい、ただ単純に嫌いだった。
金持ちで、俺様で、だけどカリスマ性を持ったそんなアンタが、私は死ぬほど大嫌いだった。
「キャー跡部様ー!!」
食堂に響く女子生徒の声に思わず耳を塞ぐ。
これでもかというくらい歪みきった顔は、たぶん本日最高に不細工だと思う。
今何分、何秒経ったのかもわからないけど、キャーキャー響く声が止む事はない。
しかもいつも聞くのとは、声色が明らかに違う。
何故ならそれは私が原因。
あの、学園一のアイドル的存在、跡部景吾の頭に牛乳をぶっかけてしまったのが事の始まり。
…いや、故意的ではなく事故だったんだけどね。
私は氷帝学園の一生徒であり、ごく普通の女子中学生。
ここ、氷帝学園では、女子から大人気なテニス部にさえ関わらなければ、ほぼ百パーセントの確率で平和に過ごせると言っても過言ではない。
それ故、私はこの二年ちょっと、中学三年生の今の今まで一度もテニス部の面々に関わったことがなかった。
なかったって言うのに!
珍しく朝寝坊してお弁当作る時間がなかった私は珍しく昼食を食堂でとる事にした。
そして、これもまた珍しくその食堂にテニス部レギュラー達が集合して円卓テーブルでお昼ご飯を食べていた。
その横を牛乳とパンとサラダが乗ったトレイを持って横切ろうとしたところ、
前から走ってきた男子生徒に運悪くぶつかり、ちょうどすぐ横に座っていた跡部景吾の頭の上から牛乳を被せてしまったというのが事の経過。
瞬時に死ぬ覚悟までした私は、今日は厄日じゃないかってくらい本当に運が悪かったと思う。
何故、何故に跡部景吾なのかと。
この学園で断トツで大嫌いな部類に入るであろうこの男に!
私がショックのあまり顔を引き攣らせて固まっていると、髪から牛乳を滴らせた跡部景吾が「おいお前。」と言ってゆっくりと立ち上がった。
「いい度胸じゃねぇか。アン?」
「・・・・ゴメンナサイ。」
「で、許されるわけねぇよなあ?」
どうやら相当頭にきているようで、牛乳の匂いを漂わせた跡部景吾は振り返ると私のことを見下した。
ゴメンナサイで許されないならどうすればいいのだろうか。
やっぱりクリーニング代は出したほうがいいのだろうか。
…やだな、ないよ、そんなお金。
それよりもさっきからバックの野次が本当に煩い。
私と跡部景吾、それを見上げて驚いたり笑ったり呆れたりしているレギュラーを囲むように立っているギャラリーから
私を野次る罵声と悲鳴のようなものが私の耳をぐわんぐわんと突き刺していた。
あと突き刺さるような視線も痛いです。
「お前、名前は?」
「……。」
「学年は三年、か。 ……まあいい、ちょっとついて来い。」
「え?」
「来いっつってんだ。 ボケッとしてないでさっさとついて来な!」
「………う、はい。」
学年毎に色分けされている私の上履きを見て、同い年だと一人で納得した跡部景吾は不機嫌気味に歩き出した。
もろ半泣き状態の私はトレイを近くのテーブルに置き、言われた通りに跡部景吾の後ろをついて行くことにした。
……あぁ、お昼まだ食べてなかったのに。
あれ、食堂のオバサン、置いておいてくれるかな。
後で食べに戻りますから……って無理かなやっぱ。
それよりも私は生きて帰れるのだろうか。
今から私は一体何処へ連れて行かれて、どうオトシマエをつけさせられるのか。
跡部景吾の背中を追いながらもずっと命の心配ばかりしていると、目の前の跡部景吾が急に立ち止まる。
ハッとして現実逃避していた意識を現実に引き戻すと、何故かあれほど自分に無縁だとばかり思っていたテニス部の部室まで来ていた。
ただ一言、「入れ。」と言われて仕方なく中へと入る。
初めて入るそこは、想像以上に綺麗で、思わず開いた口が塞がらなかった。
(……すげぇぞ、これは。)
ひとりでアホみたいに辺りを見回していると、跡部景吾は私に関係なくさっさと制服を脱ぎ初め、
気がつけば上半身裸になっていて思わずぎょっとした。
(ま、まさか体で払えなんて言うんじゃ……! 中学生のくせに生意気な!!)
「何ジロジロ見てんだよ。 お前はそこに座ってろ。」
「……はい?」
「俺様は先にシャワーを浴びる。 話はそれからだ。」
「……あ、そう、ですか。」
フンとそっぽを向いて跡部景吾は部室の奥へと姿を消した。
きっとそこにシャワールームでもあるんだろう。
一人になって緊張が解けた私は、無駄に気張ってしまった体の力を抜いてその場にへたり込んで溜まっていた息を一気に吐き出した。
そして、しばらく跡部景吾が帰ってくることはなかった。
***
「ねぇ、跡部とちゃん何処に行ったんだと思う?」
二人が消えた食堂で、カレーを一口含んだジローが頬杖をつきながら周りにいるレギュラーを見渡した。
ちょうど彼の真正面に当たる席には真っ白な牛乳が滴っている。
しばらくは茫然とそれを眺めていた彼らだったが、ジローが投げかけた疑問の声により、それぞれ食べるのを中断した。
まだギャラリーはワイワイ騒いでいて、当分は落ち着くことはなさそうだ。
宍戸は面倒臭そうに溜め息を吐いて肩を落とした。
「ちゃんって……お前、知り合いかよ?」
「ううん全然。」
「っつかさっき名乗ってたしな、アイツ。 だっけ? 今頃は跡部にボコられてんじゃねぇの?」
ガハハと岳人の高らかな笑いが響く。
そんな相方の姿を見て忍足は苦笑いを浮かべて箸を置いた。
「ボコはないやろボコは。 相手は女やで? それにしても俺あんな子知らんわ…何組?」
「あ、そういえば僕のクラスかも……。」
「へえ、滝先輩のクラスなんですか。 先輩って、日頃はどんな人なんですか?」
「うーん、よくは知らないけど……普通の子、かな。 悪くもなく良くもなくってところ。」
「つまりは標準中学生かよ。 跡部に牛乳かけちまうなんて、とんだ災難だな。」
舌打ちをして残りのご飯を口に放り込む。
跡部に連行されて行くの姿を思い浮かべながら、宍戸は同情するも、あまり関わらないことを心の中でそっと誓った。
こんな多くのギャラリーの中であんな大惨事を起こしてしまったのだ。
必ずあとから何かが起こるに決まっている。
そうなった時、面倒事が自分に降り懸かってくるのは御免だからだ。
「ま、俺は跡部がシャワー浴びに行ったに千円だな。」
「あ、それ俺も千円!」
「じゃあ俺も〜!」
「俺もそうだと思います。」
「僕も、かな?」
「……俺もです。」
「って全員やと意味ないやんか。」
当事者のいない食堂には、まだ暢気に高らかな笑い声が響いていた。
***
ドアノブが回る音が鳴り、シャワールームから牛乳を洗い落とした跡部が出てくる。
私の肩はぴくりと跳ね上がり、暇だったのでこっそりやっていたパソコンの電源を勢いよく消した。
が、跡部はそれを見逃してはくれなかった。
チッ、心の狭い奴め。
「反省してねぇだろ、お前。」
「……思いの外長かったので……つい。」
「反省してねぇみたいだな。」
タオルで頭を豪快に拭きながら一人用ソファーにドカッと座る。
ここが奴の特等席なのだと咄嗟に判断した。
そして、ふわりとほのかに香るシャンプーの匂いに不覚にもドキッとした。
チクショウ、悔しいわ。
大がつくほど嫌いなタイプの男に一瞬でもときめいてしまうなんて。
あーやだやだ。
早く休み時間が終わればいいのに。
一刻も早くこの空間から逃げ出したい衝動に駆られる。
だけどやっぱり私には大勢の人の前で牛乳をかけてしまったという負い目があるから、おとなしく椅子の上に正座して姿勢を正して座った。
「まあいい。 わざわざ俺様が部室まで連れて来てやったんだ。 ありがたく思うことだな。」
「はあ、ありがとうございます。」
「お前、何でかわかって言ってんのか? アン?」
「……さあ、さっぱり。」
「…………。」
肩を竦めて早く帰りたいオーラを醸し出しながら目を反らすと、ものすごく残念な視線が返ってくる。
マジで張り倒していいですか、この男。
悪いのは私かもしれないけど(いや、私だけど)この男にここまで上から見られる意味がわからん。
きっとコイツあれだ。
人の弱みにとことん付け込むタイプだ。
くそっ! 今になって私にぶつかってきたあの男を恨めしく思うよ。
今度見かけたら捻り潰してやる。
「公衆の面前で俺様にあんなことしやがって。 お前、生きて帰れると思わない方が身の為だぜ。」
「……やっぱり何かオトシマエつけさせられるんですかね。」
「落とし前? 俺様は別にこれくらいもう何だっていいんだよ。 シャワーも浴びたしな。」
「は?」
「ったくわかんねぇ奴だなお前は。」
はあ、と短い溜め息を吐いて立ち上がり、私の目前まで歩いてきて偉そうに見下した。
近くで見るとやっぱり綺麗な顔をしていてすごい威圧感がある。
私は息を飲んで歯を食いしばった。
「周りの奴らがお前を放っておかねぇって事だ。」
「ファ、ファン……?」
「最近オレ様も女関係は控えめにしてた分もあってめっきり虐めの対象がいなかったからな。 いいカモだぜ、ちゃんよ。」
「か、カモ!?」
思わず上擦った声を荒げて立ち上がると、椅子がガタンと音を立てて床に転がった。
私が虐めにあうなんて冗談じゃない。
私自身に問題があるならまだしも、原因がこの男であると思うとぞっとする。
ってかあんまりだ。
それならまだ私の存在を否定された方が納得はいくだろう。
私が真剣に顔を歪めて固まっていると、跡部は楽しそうに、嫌味たっぷりな視線を向けて喉を鳴らしながら笑った。
「だからだ。」
「?、だからって何がだから?」
「……あんな公の場で俺様がお前に何か言えばそれがまた虐めに繋がるだろうが。
だから話は誰もいないここに連れてきてやったんだ。 気の利くオレ様に感謝しな。」
「はあ……、でも牛乳かけちゃった時点でもう遅いと思うけど……。」
そうだ、何考えてんだこの男。
馬鹿じゃないの、何が感謝? 何に感謝しろって?
どうせアンタが私に何の恩を売ろうと明日の私はアンタのファンとやらに集られる運命にあるのよ。
一体何を企んでそんな役にも立たない偽善を押し付けてくるのか。
だって、私はこんな奴に良心があるなんてちっとも思っていない。 あるわけがない。
コイツのように金持ちで俺様で男前でカリスマ性があって、他人の事なんて虫けらのようにしか見ていない奴に良心なんて……
(あるわけが、ない……。)
「お前、相当捻くれてやがるな…。 素直にお礼でも言ったらどうだ?」
「……さっき言ったし。」
「意味がわかって初めてお礼は言うもんだぜ? アーン。」
「……全く納得できないけど、ありがとうございました。」
何か腑に落ちない私は俯いたままそう呟くと、さっさと部室を出て行こうとした。
しかしそんな私の手を跡部は「待てよ」と言ってギュッと掴むと、口元を上げて笑った。
嫌だ。
離せ。
触るな。
アンタみたいな奴が私は……―――――――
「お前、何でそんな腐った目してやがる。」
大嫌いなのに。
「!、ん……ッッ!!!」
目の前が真っ暗になって、
感じるのは柔らかな温かさ。
今、私……キスしてる?
「……ッアンタ最ッ低!!! 何のつもり!!!!?」
「ふん、何とでも言え。 それで許してもらえるんだから安いもんだろ?」
重なる唇が離れた瞬間に相手を突き飛ばす。
なんともないような顔をした跡部をギッと睨みつけると、私は必死に口を擦ってゴシゴシと拭った。
腐る腐る腐る!!!
こんな奴と……私が!!!
何を思ってコイツはこんなことをしたのか、甚だ疑問で仕方がない。
楽しそうに目の前で余裕をかましている跡部を睨みつけて、私は収まらない苛立ちをありのままにぶつけた。
「冗談じゃないわ! アンタ頭可笑しいんじゃないの!!?」
「アン? それはお前が、」
「私が何したって言うの!? 何の嫌がらせ!? そりゃ牛乳はかけちゃったけどあれは事故だしちゃんと謝ったでしょ!!」
「……おい、」
きっと、跡部は私にキスをした事なんて何とも思ってないはずだ。
こういう人間は……何でも気分で、相手の気持ちなんてちっとも考えないで……
それで…アイツみたいに……
「アンタなんて……死ねばいい!!!」
それだけ叫んで私は今度こそ部室を飛び出した。
跡部は引き止めることも、追ってくることもしなかった。
(ほら、やっぱりアイツはこういう奴なんだ。)
溢れる涙が、何の抵抗もなく頬を伝って胸を締め付けた。
***
時と言うものは過ぎるのが早いもので、気がつけばもう放課後。
教室の話題はお昼の私の起こした事故で持ちきり。
視線がいろんな角度から突き刺さって煩わしい。
早く、早く終礼が終わってほしい。
「……、顔色悪いけど平気?」
「小百合……うん。断然、絶不調だよ。」
「……そう、大変だね。も。」
終礼が終わり、視線の嵐からやっと解放された私に近寄ってきたのは友達の小百合。
苦笑いを返して私たちは靴箱へと向かった。
途中、擦れ違う人々に教室にいた時と同じような視線を向けられたけど完全に無視を決めこんだ。
いちいち返してたら絶対ろくなことにならない、そう思ったからだ。
「、これからどうすんの? 大丈夫なの?」
「さあ……どうなんだろうね。 想像できないや。」
「だよね、に限ってまさかこんなことが起こるなん……」
「?、どうしたの? 小百合?」
突然目を見開いて黙り込む小百合。
不思議に思った私は靴を履くのを止め、顔を上げた。
小百合の目線は私の背後。
嫌な予感がして背中に嫌な汗が伝う。
私はそっと、慎重に振り返った。
「あーお前昼間の!!」
「さん、やったけ? あーそういえば跡部、あの後どうなったん?」
「さあな。 コイツに聞いたらどうだ? なあ、ちゃんよ。」
オカッパですごく身軽だって有名な向日岳人と関西弁独特のイントネーションで話し氷帝の天才と言われている忍足侑士。
そして、私の大嫌いな男、跡部景吾。
跡部景吾は靴箱から靴を取り出し、さほど私に見向きもしないでただ口元に嫌な笑みを浮かべていた。
思い出すのは昼休みの出来事。
絶対に死んでも許せないこの男、思い出すだけで怒りが込み上げてくる。
私はギュッと拳を握り締めると、昼間のように跡部景吾を睨み上げて歯を食いしばった。
「なになに!? 何かあったのかよ跡部!!」
「怪しいな〜、さん、跡部に何されたん?」
「……………のよ、」
「?、何か言ったか?」
「……しは………なのよ。」
「だから聞こえねぇって! お前絶対もっと声出るだろ? はっきり言えって。」
嫌いなの。
嫌いなの。
アイツが、アイツの影が、重なって
「私はアンタみたいな男が死ぬほど嫌いなのよ!!!! 跡部景吾!!!!!」
私の声は辺り一面に響き渡って、下校を始める人、部活に向かう人、いろんな人の注目を浴びる。
肩で息を吐いたり吸ったりしていると、隣で目を見開いて私の肩を掴んだ小百合が「ちょっと、!」と私を止めようとする。
しかし、そんな小百合の手を振り払って、驚いた顔をしている男三人のうち、跡部景吾だけを睨みつけて止める事なくさらに続けた。
「私はアンタみたいな人間を見てると反吐が出るの!!」
「………。」
「もう謝ったし唇だってくれてやったんだから……二度と私に関わらないで!!!!」
涙が、自然と目尻を伝う。
もう胸の奥にしまいこんだ辛かった日々のフラッシュバックが、一気に私を襲う。
ああもう、頭がクラクラする。
歪んだ視界に映る跡部は呆れたように大きく息を吐いて、一人で熱くなっている私をじっと見据えて言った。
「言いたいことはそれだけか、。」
ずしりと重い彼の声。
ああ、その冷たい青い瞳が、私を軽蔑したようなその冷めた瞳が、
ねえ、すごく苦しいの。
「ああ、それだけだよ!!」
吐き捨てるように叫ぶと、小百合すら放って私は学校を飛び出した。
再び涙が溢れてくる。
こぼれないように必死に手で覆い拭って、唇を噛み締めて帰路を走り抜けた。
私は、ただ、キミとアイツを重ねてた。
ごめんね。
キミは、とんだとばっちりだったよね。
2008.11.17 加筆修正