君の死、僕の涙
先輩の望むことは何なのか、
少なくとも俺はわかっている気でいた。
だからこそ跡部部長の出した結論は、
俺にとって辛いものでしかなかった。
誓いの前夜
「ねえ、長太郎。」
「・・・・はい。」
「明日、僕にとってものすごいチャンスなんだよね。」
「え?」
「レギュラー復帰の、チャンスなんだ。」
滝先輩と二人、公園のブランコに揺られて空を仰ぐ。
もう夜だけど滝先輩と二人きりなんて、珍しい。
それも公園のブランコなんて・・・・。
「明日、皆が負ければ僕はレギュラーに戻れるんだ。」
ズキンと心臓が跳ね上がる。
「だけどね。」と続ける滝先輩の横顔にちらりと視線を這わせる。
月明かりに照らされていて、ものすごく儚げだった。
「はそんなこと望んでないから。」
「・・・・・・。」
「初めから、今大会のメンバーに僕の居場所なんてなかった。」
「そ、んなことは・・・・。」
「くす、そんなこと、あるんだよ。」
まるで、長太郎ならわかるでしょ?と聞かれているみたいで言葉に詰まる。
草村から聞こえる虫の鳴き声が、意識の外でぼんやりと聞こえていた。
「ほんとズルイ女だよね、は。こんなマスコット、思ってもないのに作っちゃって。」
「滝先輩・・・。」
月明かりに翳し、マスコットが揺れる。
背には“復活祈願”の文字。
滝先輩はそんなマスコットを見上げるように見つめ、悲しげな瞳をゆらゆら揺らしていた。
「明日、僕は勝つ気でいるよ。」
「・・・・はい。」
「跡部なんかに負けない。僕は跡部がどうなろうと勝つ気でいるから。」
そう言い残してブランコを蹴るようにして立ち上がる。
一度だけ振り返り、何とも言い難い笑みを浮かべて滝先輩は帰って行った。
「・・・・先輩。」
このまま、みんなで頂点目指していけるものだと思い込んでいた矢先の出来事。
先輩の死。
これは今の俺達にとって、かなりの痛手だった。
ずっと、何年もの歳月をかけて共に過ごした支えをなくした、そんな感じの今の俺達。
このままで、いいはずがない。
だけどそれ故に出した結果が跡部さんにとって、
レギュラーを落とすかもしれない、試合だった。
確かに俺達は今のままでは大会に出たって結果は目に見えてわかっている。
そんな奴を出すよりはきっと、準レギュラーの奴らを出して勝ちを取りに行った方が確実だろう。
でも、滝先輩は気づいている。
「・・・・・・お願いです。誰も・・レギュラー落ちしませんように。」
あまり綺麗ではない都会の星に願いを込める。
俺にはそんなことしかできないから。
そんなことしかできないけれど、今は出来ることからしなければ。
俺一人が願ったって、結局は何も変わらないのかもしれない。
でも、それでも俺は・・―――――――
『私、大会のメンバーちゃんと決めてるのに。』
先輩が願ったこのメンバーで、戦いを挑みたかった。
この人数分のマスコット。
きっと相当な願いが篭っているはずだ。
レギュラー落ちなんかして、無駄になんてできない。
――――― 跡部なんかに負けない。
そう言った滝先輩の真剣な眼差し。
きっと気づいているんだ。
そして俺も、気づいている。
いやだ。
いやです。
俺は、大好きだったんです。
この揺るぎない強さを誇ったテニス部が、
跡部さん率いるこの誇り高きテニス部が、
口はきついけど面倒見のいい宍戸さん。
いつも元気で気さくな向日先輩。
冗談も多いけど気が利いて一段と大人な忍足先輩。
ちょっと世話が焼けるけど明るく面白いジロー先輩。
レギュラーから落ちてしまったけど、それでも優しく親切な滝先輩。
跡部さんの隣をくっ付いてていつもいろいろと世話になる樺地。
口は悪いし嫌味ばっかりだけど、頼りになる日吉。
強くてどんな時もその自信を失わない、跡部部長。
そして、
温かな笑顔を与えてくれる先輩。
この全てが揃ったテニス部が、俺は大好きだったんです。
だから負けないで下さい。
誰も、欠けないで下さい。
これ以上、俺から大切なものを奪っていかないで・・――――
滝先輩は気づいてる。
誰が一番、不調かってこと。
誰が一番、先輩の死を塞ぎ込んでいるのかってこと。
そして俺も、気づいている。
「準レギュラーの日吉が入る。」
この台詞。
この場面。
この動悸。
「監督!!!」
宍戸さん。
滝先輩。
跡部部長。
先輩。
「お願いします!!」
ああ、この時は本当に嬉しかった。
宍戸さんがレギュラー復帰して、先輩の喜ぶ顔が見れて、
だけどその陰で、滝先輩に対しての感情が、素直に喜ばせてはくれなかった。
「はーぎー。」
「。」
「どんまいどんまい!元気出せ!!」
「・・・・・今は・・そっとしておいて。」
俺は宍戸さんと別れて部室に戻ろうとしていた。
そこで聞こえてきた先輩と滝先輩の話し声。
聞いてはいけなかったんだろうけど、足が動いてくなかった。
「・・・・萩は・・・諦めるの?」
「どうせだって、宍戸がレギュラーに復帰した方が嬉しいんでしょ?」
「そんなことは・・・・」
口ごもる先輩。
苦しそうな、だけど尖った瞳で先輩を睨みつける滝先輩。
この二人の間に流れる空気は、まるで氷のように冷たかった。
「あるよって言ったらどうすんのアンタ。」
途端に滝先輩の目が見開かれる。
今度は先輩の方が鋭い目つきで滝先輩を睨んでる。
俺は、自分の耳を疑った。
先輩は怒っている。
滝先輩は傷ついている。
この二人はこれからどうなるんだろうと、
俺は不謹慎ながら少しの好奇心と偽善者ぶった心配で、気づかれないように息を潜めて耳を澄ました。
「・・・・どうも、しないよ。」
やっとのことで紡がれた滝先輩の台詞。
掠れているように聞こえたのは俺だけだろうか。
じゃり、と砂の踏みにじられる音が聞こえて俺は「やばい」と感じた。
先輩か、滝先輩か、どちらかがこっちに来る!
俺はどうしようかと頭では思っているのに、体が動いてくれなかった。
「萩、もしアンタがそれでも頑張るって言うなら・・・・」
レギュラーメンバーに入れてやってもいいよ。
きっともうそこに滝先輩はいない。
もしくは背中を向けて、反対方向に立ち去っているかだ。
それでも先輩が誰にも聞かれることがない台詞を口にしたのは、
滝先輩に、戻って来てほしいという願いを込めてのことだろう。
「おいコラ、立ち聞き少年。」
「あ・・・・えっと、すみません!」
「はは、私のところからずっと見えてたよ?」
アンタでかいから。と笑って俺の頭をバシバシ叩く。
痛いなと思いながらもこれが先輩でよかったと思う俺がいた。
もしこっちに来ていたのが滝先輩だったなら、俺はどうしていいのかわからなかっただろうから。
「萩ってさー・・・諦め癖あるからね。」
突如、空を仰いで口した言葉。
俺はただ黙ってそれを聞いていた。
「だからきっとそれを克服しないとレギュラー戻れないんじゃないかなー。」
うーん。と唸り声を上げて伸びをする。
確かに、滝先輩は少し投げやりになるところがある。
投げやりというよりはやはり諦めるのが早い、と言った方がいいのだろうか。
先輩は、そんなところを見越して既に滝先輩を自分の中のレギュラーメンバーから外していたのかな。
「ま、応援はしてるんだけどねー。こればっかりは自分で何とかしてくんないと。」
「宍戸さん・・・みたいにですか?」
「お、そうそう!今日は宍戸おめでとさんだね!!!」
思い出したと言わんばかりに急に手を叩き、嬉しそうに微笑む。
「よかったよー!」とか「嬉しい!」とか言いながら宍戸さんについて力説してる。
よほど嬉しかったのだろうか。
少し声が裏返ったりしていた。
「先輩、」
先輩が話すのをやめる。
ゆっくりと視線がこちらに向けられて、俺の息は詰まる。
違う。
違いますよ。
今は、喜ぶべき時じゃない。
俺達は、レギュラーじゃなくなるかもしれないんだ。
「ちょ・・・たろう?」
どうしたのと言いたそうな表情で俺を見上げる。
あの時はこんな会話なかった。
宍戸さんの復帰を共に喜んで、
でもやっぱり心の底では滝先輩への負い目があって。
宍戸さんに渡す物があるからと言って先輩とここで別れたんだ。
だけど、今は違う。
これは、あの時じゃない。
あの時は、もう二度と来ない。
俺の大切な先輩は、もういないんだ。
「先輩、このままだと、俺達大会に出られないかもしれないんです。」
俺の言葉に、見開く大きな目。
俺は、ただ唇を噛み締めた。
悔しくて、
悔しくて、
貴女にそんな顔をさせてしまった、自分が悔しくて。
「俺は・・・勝てる自信がありません。」
不安で、
不安で、
不安で、
「もしかしたら、落ちちゃうかもしれないんです。」
情けない。
せっかく掴み取ったレギュラーを、落としてしまうなんて。
「長太郎、本気でそう思ってる?」
先輩が見たこともないきつい眼差しで俺を睨み上げる。
喉に、何かが詰まってうまく息が出来ない。
「本気で、勝てないかもとか思ってんのかって聞いてんの!」
掴み上げられる俺の胸倉。
俺より小さい先輩が、背伸びをして精一杯の力をぶつけて来る。
うまく、視線を合わせることが出来ない。
目は、泳ぐばかりだ。
「・・・・みんなは大丈夫だよ、長太郎。」
「みん、な・・・?」
「みんな、大丈夫。」
そっと先輩が手を離す。
胸元の締め付けが、スッとなくなって俺は息を整えた。
それでも、楽になんてならなくて。
いつまで経っても苦しいまま。
「嘘だ!だって・・・・だってッ・・・・」
先輩の表情に曇りが見える。
嘘だ。
みんな、なんて嘘だ。
まだ、まだ先輩の死を、吹っ切れていない人がいる。
それは滝先輩も俺も、気づいている。
「跡部部長はずっと先輩の死から目を背けてるじゃないですか!!」
滝先輩も、
俺も、
ずっと気づいていた。
だからこそ、
今回の試合、
負けるのは・・―――――
「・・・・・長太郎、お願いがあるの。」
そんな、顔、しないで下さい。
俺、そんな顔させたいわけじゃないんです。
「お願い・・・ですか?」
「そ、お願い。」
苦笑いを浮かべて後ろで手を組む先輩。
少しその姿が霞んで見える。
それはもう、お別れの時が来たからだろうか。
「もし萩がね・・・・・」
「・・・・・わかりました。」
貴女の、最後のお願い。
『長太郎!お願い!一生のお願い!!』
『それ昨日も言ってましたよ・・・。』
『おい!長太郎に無理なお願いばっかしてんじゃねえよ!』
『無理じゃないよ!ねー長太郎?』
『え・・・えと・・・。』
『ったく、無視すりゃいいじゃねえかお前も。』
きっと、叶えてみせます。
「ありがとう。」
そう言って笑って消えていく先輩。
もう、二度と会うことがないだろう、大切な人。
本当はもっと伝えたいことがたくさんあった。
いつも言うことができなかった、伝えたい気持ち。
だけど、それは何だか口にしない方がいいような気がして、
最後の最後まで飲み込んだまま口を開くことはなかった。
月が、俺を照らす。
少し吹いた風に、揺れるブランコ。
「・・・・・俺は、何をしてるんだ。」
こんなところで、
こんなところで、
こんなところで、
こんなところで想いに耽っている場合ではない。
「俺も、頑張らなくっちゃ。」
肩にバッグを担ぐ。
そこに揺れる俺の顔したマスコット。
背中には“必勝祈願”。
先輩。
貴女の最後のお願い。
あの時消え入りそうな声で伝えられた最後の願い。
約束通り、ちゃんと聞いてあげます。
だけど、これが最後ですからね。
貴女はもういない。
俺達はレギュラーじゃなくなるかもしれない。
だけど、
先輩達と共に、たった一度だけの時間をすごせたことを、
俺はずっと、誇りに思っています。